廻る半月
「早く大人になりたい」
それは哀願するような切実さだった。
成長途上にある幼い少女特有の大人への漠然とした憧れからのものだと決めつけてしまうにはあまりに悲痛に聞こえた。
「うん。オレも成人は早い方がいいと思ってる。仕事の幅が増えるしね」
当たり前のことを言ったつもりだったけれどナマエにとっては的の外れた答えだったみたいで。違う、と言ってはメソメソと声を出さずに泣き続けている。
馬鹿な奴。大人になれば無条件で現実から逃げ出せるなんて子供じみたことを信じているらしい。
オレ以外の家族は去年産まれた三男にかかりきりだからこういう時のナマエの面倒、もといフォローは大抵オレの仕事だった。
ナマエはオレと同じ日、同じ時間に産まれた双子だ。
双子といっても二卵性だから性別も違えば外見も違う。それだけならまだしも、念の才能も無ければ体も弱くてとてもじゃないけど暗殺なんかできる器量じゃない。一卵性だったならどんなに良かったかと言う周囲の声は、オレが一人で仕事をするようになってからは特に顕著に聞こえて来るようになった。
「⋯⋯好きな人がいたの」
弱々しく呟くナマエの後ろで鏡台の鏡が粉々に割られて床に散らばっている。
叩きつけたのは口紅らしい。これもまたぐちゃぐちゃに崩れて転がっていた。
「でも終わったわ」
ベッドの上で縮こまっているせいで声が聞き取りづらい。涙で赤く腫れているであろう両目は髪の毛に隠れて見えなかったけれど、かすかに覗く唇は人工的な赤色に染まっていた。
大人になろうとして外見だけ取り繕っても虚しいだけなのに。
ほんとうに自分と血が繋がっているとは思えないくらい短絡的であさはかな妹だと思う。
「今日もう会わないって連絡が来たの。会えないんじゃない、会わない。私がこの家の人間だって知られたから」
「何だ」
なにかと思えば失恋して荒れていたのか、思わずそう言えば腫れた目で睨まれた。ナマエに凄まれたって痛くも痒くも無いし。気にせずにオレは続ける。
「いつから付き合ってたのか知らないけど時間の無駄だったね。相手は誰? どうせまた外で適当に見繕ってきた人間だろ?」
その程度で逃げ出すような奴とはどのみち長くは続かなかったにちがいない。オレ達みたいな人間とは対岸にいる奴らには一生をかけても理解されることはない。
いつからだったろうか。ナマエはウチには無い居場所を外に求めるようになっていた。でも、両親の後ろ盾なしでは裏社会とは無縁の世界に生きている一般人くらいとしか知り合えない。最初から長くは続かないことに自分でも薄々気づいていながら、のめり込んではふられることを繰り返している。
「そんなに悔しいなら消して来てやるよ」
ナマエは一瞬びくっと体を震わせて、胸にかかえていた両膝をさらに強く抱き込んだ。
「⋯⋯ほうっておいて」
イルミには関係ない、この気持ちはイルミには一生分からないよ、と言って下を向く。
こっちだって軟弱なナマエの考えることなんて分からない。
こっちはナマエが外で他の人間と接触して破局するたびにこっそり後始末をしてやってるっていうのに。
こっそり、っていうのはオレなりの気遣いだし、忙しい仕事の合間を縫ってタダでやってあげてる。こんな面倒くさいこと普段なら絶対しないんだけど。
「なにか勘違いしてない? どちらにせよ遅いか早いかの話だよ。ナマエがそうしてほしいならそれを早めてやろうかって言ってるだけで」
「もうやめて。こんな時に変なこと言わないで!」
「ナマエさ、今までに仲良くなった奴らと連絡って取ってる?」
「⋯⋯何、急に」
ナマエがひくりと呼吸を止めたのが分かる。
息を飲むってこういうことを言うんだろうな。疲れないのかな、感情の抑制もできないなんて。
「未練たらしいお前のことだからね。しつこく復縁メールとか送ってるんだろうけど。全員が全員、ナマエから離れて行った時点で音信不通になるのとか変だと思わなかった?」
「まさか⋯⋯イルミ⋯」
ようやくこっちを向いたナマエの顔は蒼白。
案の定、気がついていなかったみたいだ。
相手に何を期待していたか知らないけど、ゾルディック家の長女だって自分からバラしてしまえばいずれはこうなるって分かりそうなものなのに。
別れた後でも相手が同じ空の下で暮らしている事が心の支えだなんて思っていたんだろうか。
いかにも幼稚なナマエが考えそうなことだ。笑えてくる。
「気付いてなかったんだね。やっぱりナマエって馬鹿だなあ」
「⋯⋯っなんでなの!」
いつもだったら情けなく泣いて終わるナマエが今日は珍しく掴みかかってきた。
ナマエが能動的にオレに敵意を向けることなんて滅多にないから好きなようにさせてみる。
オレの上に跨がったナマエの手が首に伸びてきて、そのまま締め付けられるかと思いきや暗殺用に襟元に潜ませてあったナイフを取られた。
まともな訓練を教わった事なんて無いのにちゃんとナマエが暗器の場所を知っていたのは少なからず驚いた。きっと何もできない自分なりに普段からオレの事を観察していたんだろう。
しかし、手にしたはいいが扱い慣れていないのは丸分かりで、ナマエの手にぎこちなく握られた小ぶりのナイフは振り上げる前に簡単に奪えた。
「偉いね、ここに隠してあるの知ってたんだ? でも残念。持ち主の武器を奪う時はよっぽど速く急所を狙わないと意味がないよ」
奪ったナイフを床へ投げ捨てるとぎりぎりで保っていた心が折れたのか、ナマエはまた両手で顔を覆って泣き出した。
「もう、嫌。この家も私も全部無くなればいい」
なんだ。ナイフは自分に向けるつもりだったらしい。つくづく情けない奴。
オレに馬乗りになって中途半端に捲り上がったスカートの裾から華奢な足が見える。振り乱された黒い髪と真っ赤な唇、青白い足が奇妙なコントラストで両立していた。
「無理だね。お前は一生このままだよ」
そう囁くように言うとこっちを睨むように見つめてくる。
腰にナマエを乗せたまま上半身を起こすと、その唇を親指で強く拭った。
赤色が取れて頬にまっすぐに線になって滲む。オレと同じ、母親譲りの色素の薄い唇が露わになる。
「オレ達の存在価値はここにしかないんだからね。その中でお前のことを本当に理解してやれるのはオレだけだよ。ナマエにはまだ分からないだろうけど」
「イルミの言う事なんて分からないわ⋯⋯分かりたくもない」
こんなに手間がかかる。見ているだけで虫酸が走るような出来損ないの妹。
救いあげてやろうとは思わない。だけど何故だか放っておけない。
どこにも行けないし行かせない。
オレのクローンとして産まれてこられなかった自分を呪いながら生き続ける可哀想なオレの半身。
一人で大人になろうとしないでいいから。
オレの手の中からいなくならないでずっとちっぽけで惨めなままの君でいて。