咀嚼



ふと会話が止む一瞬に交わされる例のアレ。
両者にしか分からないあの弛緩した空気が俺はどうにも苦手だった。


「キルア様」

扉の向こうから声がして、短く応えると銀のトレイを片手にナマエが静かに入ってきた。
トレイの上には白い茶器とナプキンが綺麗に折り畳まれて乗っている。

「お前兄貴の専属だろ。いちいち俺にまで気ぃ回さなくてもいいから」

「いえ、もう少しでお帰りになると連絡がありました」

扉から目を逸らしてぶっきらぼうにそう言えば、背後から澄んだ声が返ってくる。
“お話があるそうですので” コトリ、とテーブルの上に茶器が置かれる音がする。

「⋯あーそう」

要するに大人しく部屋にいろよってことで、それに気がついた俺はげんなりと目の下にクマを作った。
あのイルミが執事を正しく使っているだけでも驚いたのに。専属なんて枠に入れてまで傍に置いたのは後にも先にも彼女だけだ。奴は度々こうして何かと理由をつけてナマエを同席させる。
両親や他の弟達にも同じ事をしているのかと思えばそうではなくて俺だけにやっているらしい。一体なんの意味があるんだ、とは思うが確かに言いようの無い感情にはさせられる。

「お茶菓子は何になさいますか」

慣れた所作でケーキプレートとフォークを並べていく。
あいつと一緒にケーキを食うとかなんの拷問だよ。せめてすぐ食べ終われるやつがいいと思って差し出されたトレイの上の数種類の中から一番小さいものを指差す。

「その一番ちっさいやつでいい」

プレートの真ん中にちょこんと菓子が乗せられる。
それを横目で見ていた俺はあることを思いついた。

「なあ、俺達でこっそり食べちまおうぜ」

イルミが来るのは決定事項だとしてそれを素直に待つほど俺も殊勝じゃない。
ナマエの反応に興味があった。断られればそれまでだけど少しでも困ってくれればいい、と思う。たちの悪い悪戯心だったが興味と言えば聞こえはいいし罪悪感も薄い。

「夕食までまだお時間がありますからね。何か軽食をお持ちしましょう」

「そういう意味じゃねーよ。どうせ用意したって兄貴は食わないんだし、勿体ないだろって話」

「⋯⋯⋯」

困ってる困ってる。
執事が家族に必要以上に干渉するのは御法度で。それはナマエも同じくそうした教育を受けてきている。これが見つかろうものなら懲罰を受けることになるのは承知の筈だ。

「他の奴には内緒にしてやるよ」

あえて逃げ道を作る。
もちろん秘密を守るつもりはなくて彼女の弱みを握ってやろうという魂胆があった。

「ええと」

ナマエはしばらく考える素振りをした後、にこりと口元を綻ばせた。

「わかりました。内緒ですよ」

ふいに見せられた柔らかい表情に俺の目は情けないほど泳いだ。
それまでのナマエがその他大勢の執事と同じく、私情を匂わせない平淡な表情を形作っていたせいで余計に綺麗に見えた。自分より年上のそれも使用人に対する感情としてこれが適当なのかは分からなかったが無垢な彼女の表情は可愛いと感じる。

兄に気に入られているというバイアスを差し引いても、ナマエにはどこか特別な感覚を覚えてしまう。
それに俺の無茶ぶりに素直に首を縦に振る執事も初めてだった。

そうだ、俺は別にナマエが嫌なんじゃない。あのふたりがいる空間が苦手なだけなんだ。

「そうと決まればイルミ様が来る前に食べちゃいませんと」

「いいのかよ」

「なにがです?」

「や⋯、なんでも」

俺がさっきの罪悪感を感じるより早く、存外ナマエは淡々と事を進めていく。

ナマエの指が菓子の乗ったプレートを滑らせて目の前でぴたりと止まった。
誘った手前、俺が尻込みしているのも変な話だ。

なるべく痕跡を残さないように、と思って人差し指と親指で摘まみ上げてぱくりと一口頬張った。外は密なスポンジに見えた菓子は中に溶けたチョコレートが詰まっていて、齧った隙間からとろとろと零れて指を汚した。

「あ」

横を見れば同じように指をチョコレート色にしたナマエと目が合う。

「ただ今拭くものを」

「いいって自分でやるから」

残った欠片を無造作に口の中に放り込む。
それより食べちゃえってそれ、と俺が言う前にナマエは汚れていない方の手でナプキンを取ると片手で手際よく俺の指のチョコレートを拭い始める。

「⋯あーもー。じゃあ俺こっち持つからさ」

俺がナマエの指に摘まれたままの菓子を引き受けようと指を伸ばした時だった。


「ただいま」

扉が開く音と同時に聞こえた声にぎくりと体が強張った。
くそ、ノックくらいしろよ。


「お帰りなさいませイルミ様」

何事も無かったかのようにナマエは振り向いたが、その指には食べかけのチョコレート菓子が摘ままれたままで、内心俺は慌てる。

菓子を食べさせていた俺も同罪だがそこはいい。どうにでもなる自分と違って立場が弱いナマエが酷い罰を受けるんじゃないか。そう思った。

「ああ何。キル、ナマエと遊んでたの」

「イルミ様の分のお菓子の摘まみ食いをしていた所です。で、たった今ばれました」

けろりとした顔で言うナマエ。

おい。あっさり白状しすぎだ。大丈夫かよ。

部屋に入ってきたイルミは汚れたナプキンとナマエの指を交互に見ると「オレの分は?」なんて言ってナマエの隣に座った。
別段お咎めなしの空気にも困惑したが、甘いものなんてまず口にしない兄の発言に俺はぎょっとして目を見張る。

「用意いたします」

席を立とうと動いたナマエの手首をイルミの手が掴まえる。

「これでいい」

俺が目を逸らす間もなく、指に残った一欠片がスローモーションで動いて口の中に運ばれた。スローモーションで、とは言ってはみたもののそれは俺の主観的な感覚がそうさせたんだと思う。本当は一瞬だったのかもしれない。ただその衝撃は暫く俺の頭の中に残った。

「甘い」

イルミは開口一番そう言って顔を顰めた。
その手はナマエの手首をしかと捕らえたままで。

「よくこんなもの好きこのんで食べるよね。うちの家族も」

ねえキル、なんて唐突に話を振られる。案の定言葉がすんなり出て来なくて「そ、そうかな」この上なく動揺した声を発しただけの俺はすぐに自己嫌悪に陥った。
そんな俺の横でナマエがきょとんと首を傾げている。

「お口に合いませんでしたか」

「そもそも甘いの苦手だし」

そう言うとイルミは俺の目の前で再びナマエの指を咥内に含んだ。

その指に残ったチョコレートを舐め取るように舌を絡ませる。わずかな唇の隙間から覗くナマエの細くて白い指に心臓がどきりと跳ねた。
時折軽く歯を立てられるとくすぐったそうに小さく指が動いている。

淡々とされるがままに手を預けているナマエは、拒否をするわけでもなく頬を赤らめるわけでもなく当たり前のような顔でそうしている。

見ている方は堪ったものじゃない。弟になんてもん見せんだよクソ兄貴。
そう悪態をつけども目の前で行われる光景にどうしてだか目が離せない。

両者が緩慢に行為に興じていればいるほどにその行為の背徳性が助長されているようで、俺は言い知れぬ気まずさに襲われる。

恥ずかしさと困惑と。そんな入り乱れた感情ごと俺はふたりを睨みつけた。

するとナマエの背中越しにイルミと目が合う。
その目がふ、と笑ったように細められて俺は慌てて目を逸らせた。

「っ⋯⋯!」

なんだよ。なんなんだよこれ。
こんな事してる張本人のふたりが平然としているのに外野の俺が動揺して赤面してるなんて。これじゃ俺だけがおかしい奴みたいじゃないか。おかしいのはお前らだぞ。わかってんのか!?


「俺⋯⋯水、飲んでくる」

そう叫べたのは心の中でだけだった。
ゆらりと立ち上がった俺がふらふらの足取りで扉に向かう。気付いたナマエに「キルア様」呼びかけられても無視して歩く。

「キル、どうしたの? ナマエついて行ってあげて」

「はい」

「⋯⋯ああもう! 来んなよ! いいから、絶対ついてくんな!!」

一刻も早くこの場から離れたくて猛ダッシュで廊下を駆けた。
何か怒らせてしまったのでしょうか、さあどうだろうね、なんて会話が背中から聞こえてきたような気がしたけれど、もう考えたくもない。

やっぱり俺はあのふたりが苦手だ。

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