ちょっとしたホラー
ナマエは目の前の光景に戦慄を覚えていた。
初見こそ驚きはしたが、それも光の速さで通り越して、この感情をなんと表現したらよいかと頭の中でしばし考えた後。一番しっくりきたのがそれだった。
あのイルミが。
いつも冷静で桁外れに強くて、他人に隙はおろか背中さえ見せた事が無い彼が。
鎖で後ろ手で縛られて床に転がっている。
もはや恐怖の部類である。
「あの、イルミさんですか?」
「これがオレ以外の誰に見えてるっていうの」
「そのミもフタもない言いっぷりは間違いなくイルミさんですね」
念のため人違いではないか確認してみようと訊ねると、転がったままの体勢でいつもの調子の声が飛んできた。返ってきた声でこれが紛う事無く現実であり、そして本人であると解る。夢なんかじゃない。
「何してるの?」
「抜けなくなっちゃってさ」
「え、抜けな⋯⋯っ、ぅぐ⋯⋯ふっ!」
駄目だ。笑いが堪えられない。
みるみるうちに緩んでくる頬を人差し指と親指で強めに摘んで何とか持ちこたえる。
危なかった。
人はあまりの強い恐怖に晒されると笑ってしまうという俗説を聞いた事がある。これもそのような現象なのかと真剣に考えるナマエであった。でも多分違う。単純にこの光景が面白くてツボに入っているだけである。
「拘束抜けの訓練でさ。ウチにある一番丈夫な鎖でやって貰ったのはいいんだけど」
状況を見るに訓練というのは本当らしい。
すぐ傍の台の上で黒いストップウォッチが着々と数字を刻んでいる。
9分38秒。
自分が発見するまで十分近くもこのままでいたという事か。それに気がつくと再びじわじわ笑いがこみ上げてくる。
それにしてもイルミでも抜け出せない繋縛方法なんて。一体誰の御業だろう。
彼を助けることそっちのけで是非とも教えて欲しいと思うナマエだった。
「ねえ、イルミそれ全然抜けないの? 全くの無理?」
「うん」
「⋯⋯!」
その時。ふと、ナマエの脳内に小さな小さな豆電球が灯った。
(これって)
またとない好機。
仕事においてもプライベートにおいても、いつもイルミには良いようにされている。絶対的強者が身動き取れないこの状況を弱者が利用しない手は無いとナマエの中の天使が囁いている。そうだ。
ナマエは確信した。
その鬱憤を晴らすタイミングはここしかない、と。
本来の目的だった人形を投げ捨てて、ナマエは部屋の中へ一歩を踏み出した。
*
これは罠だ。
ナマエは全く気付いていない。
来るのは分かっていたから一計を講じてみたがこんなにもすんなりかかってくれるとは思わなかった。
何度も動けないか確認をしてくるナマエ。その度にイルミが適当にそれっぽい理由をつけてやると粗忽にも頬をひくつかせて笑いを押し殺している。この状況をチャンスと見て、ろくでもない妄想をしていることは想像に難くない。
こっちもこっちで本気で身動きが取れないと思い込んでいるナマエが面白くて笑えてくるけれど。ここで笑ってしまったら計画が台無しだからイルミも必死で堪えていた。
こんな鎖なんて一瞬で抜けられる。
捕まえた後でゆっくりネタばらしとお仕置きをしてやろう。
「あのさ」
「ん?」
「そろそろ痛くなってきてるんだよね、後ろどうなってるか見てくれない?」
あくまでも無力を装いきる。
そう声をかけると部屋の入り口でしゃがみ込んで此方を眺めていたナマエがゆるりと立ち上がる。
「⋯⋯どれどれ、うーんと」
単純なナマエでも微々たる警戒心はあるようで、部屋の壁際を遠回りに距離を取りつつ近づいてくる。
もう少し。イルミがその腕の関節をゆっくりと外しかけた時だった。
カシャ。
(何、カシャ、って)
背後から聞こえた音をイルミが理解したその直後。
「みんなー見て見てー!面白い写真撮れたよー!」
「は? いや、ちょっと待って」
目にも留まらぬ速さで廊下を走り去って行ったナマエ。静止する声も虚しくぽつんと残されたのはイルミただ一人。
しいん、と静まり返る室内。
「⋯⋯⋯」
イルミは無言で鎖を外す。
立ち上がり、乱れた髪の毛をぞんざいに整えて、静かに端末をダイヤルして耳に当てた。
「あ、もしもしゴトー? 今ナマエがそっちに行くから捕まえといて」
*
ほどなくして。
「ゴトーさんのばかー!うらぎりものー!」
暴れまくるナマエを肩に担いだイルミが廊下からゆっくりと歩いてくる。顔に向かって飛ばされるナマエの拳やら膝をひらりひらりと涼しい顔で躱すその声は非常に楽しげである。
「そういえばナマエ、ハロウィンやりに来たんでしょ? トリックはオレの精神的苦痛で相殺されたからトリートの権利はオレに移譲されたってことでいいよね」
「なにその理屈!わけわかんないから!」
詭弁だ!横暴だ!などと叫びまくるナマエの口をイルミの手が強めに抑える。
「むぐー!」
「しばらくこっちに人寄越さないでね」
ガチャン。
引き攣ったゴトーの笑顔。
彼の足元にはナマエが持って来たジャックオランタンのぬいぐるみが転がっていた。