大人の甲斐性



イルミ=ゾルディックは苛立っていた。


この男、先ほど一ヶ月に及ぶ長期の仕事から帰宅し、今しがた己の妻の待つ自室の扉を開けた所だ。

誰にというのは愚問である。その妻、ナマエにだ。

では、彼は何ゆえ苛立っているのか。感情の波が極端に少ないイルミにとって、こうも自分の感情を逆撫でするのは彼女くらいだと断言できる。
ナマエはいつもけろりとした様子で、彼の海にひょいひょいと石を投げ込んで波を立てては遊んでいくのだ。

“帰りが遅いので外で飲んできます☆ ナマエより”

ラメの入ったピンクの文字で綴られた書き置き。
その一筆を締めくくるご機嫌な星マークまでを湿ったるい目で眺めて、イルミは傍のカウチにどっと腰掛けた。

これでも自分にしては急いで帰ってきた方だ。
私船を手動操舵に切り替えて安全航空速度を超過してまでフルスピードで飛ばし、屋敷についてからも館内を経由せず窓から部屋へ入った事だって普段なら絶対にしない。どれもこれも早急にナマエの元に駆けつけるが為だった。

そして結果はご覧の通りである。

自分も今日ばかりはこの鬱積をアルコールで解消してやろうかと思った程だ。イルミは細く息を吐く。

決して従順とは言いがたい妻ナマエとの数年前から続くこのいたちごっこに、イルミはほとほとウンザリしていた。
イルミとナマエの関係性については、その出会いから順を追って遡る必要がある。

――二人のファーストコンタクトは今から3年前。

「あなたが私の夫になるひと?」

「らしいね」

初見の結婚相手に対する第一声としては淡白かつ曖昧極まりないものだったが、それは別に結婚に漠然とした不安を抱いただの、親が介入しっぱなしな結婚に不満があるだの、そんな世俗的な感情からではない。
イルミにとってこの状況が関心をそそられぬものだったからだ。端的に言って、それ程どうでも良かったのである。

「そっけないのね」

「興味が無いからね」

頭の中で思っていた事をそのまま伝える事にも躊躇しない。
目の前の生涯の伴侶が、自分の言葉に何を感じようがどう思おうが構わない。世界は自分一人で完結しているのだ。

「そう。じゃ、今日が私たちの結婚記念日ってことで」

女はつくづく節目で記念日を定めたがる生き物らしい。イルミはそれを経験から知っていた。

「そういうの、悪いけどオレすぐ忘れると思うよ」

もともと真面目に覚える気も無い。

「もういい?」

「うん、いいよ」

あっさりと答えた彼女と、そのやり取りに当惑の表情を浮かべる執事を後にしてイルミは自室へと取って返した。
これが、今からぴったり3年前の事である。


だが、どうだ。


蓋を開けてみれば。あれほど馬鹿にしていたその記念日を誰よりも気にしているのは自分だった。逆に彼女のほうはこの通り。今日だって彼女が言い出したのだ。記念日を祝うから早く帰って来いと。こんな理不尽があるだろうか。
最後には結局振り回されてしまう自分への腹立たしさでイルミは小さく舌打ちをする。

これが夫に対する態度か。まったくお嬢様が聞いて呆れる。

机の上のメモ用紙を片手で握り潰した。
すると、キン、と小さな金属音と共に何かが床に落ちた。

椅子の下で鈍く光るそれを目で追う。
それは小さな輪の形で、普段より彼女の左薬指にはめられているはずの⋯⋯⋯そう、指輪である。


ガタン。


衝動的な行動というモノはおおよそした経験が無かった。が、それも3年前までの話だ。

ナマエが嫁いで来て、一緒に行動するようになってからというものイルミがこれまで二十数年間培ってきた正常な感性は狂わされっぱなしだった。
いや、何を持って正常とするのか。それすら彼女の前では虚ろになる。

しかし今ばかりは違う。はっきりと分かる。彼女の行為は断罪に足る行為だと。

指輪を外して飲みに出掛ける目的なんて一つしか無いのだから。

もういい。

どこぞの酒場で背徳感を楽しんでいるナマエを見つけて離婚届を書かせて帰る。これでこの関係も終わりだ。
飽き飽きだ。さっきからうるさく鳴ってしまう足音も、その音を聞いた執事達のまたか、という視線にも。


――そうなんですよねえ。


廊下の奥から能天気な声が聞こえてきてイルミはその足をぴたりと止めた。止まったはずみで髪が揺れる。

開きかけた玄関扉のドアノブを戻して声のした方向に顔を向けた。
廊下の突き当たりにある祖父の部屋からオレンジ色の明かりと人の声が漏れている。

聞き覚えのある声。

誘われる様に扉に近づいていく。扉のわずかな隙間から祖父とナマエの横顔が見えた所で、イルミはそっと気配を消した。

「確かにああ見えて子供っぽい所はあるかもしれん」

「ですよね〜。わかります?」

何の話だ?
ナマエがまだ家に居る事にイルミはどこか安堵しつつ、廊下の暗闇に同化して2人の会話を聞き澄ます。

「年上の癖に余裕が無いっていうか。まあ、それはそれで子供っぽい所も面白いんですけど」


自分の話だった。


「あ」

ナマエが声をあげる。脱力した所為で気配が漏れた。
あの書き置きと放置された指輪を見つけた後で、扉の隙間から彼女を覗く自分がいかに不穏な光景であるかは想像に固くないが彼女は臆することなく、というか悪びれもせず小走りで近づいてくる。
祖父はというと、此方の気配にはとっくに気付いていたようでやれやれといった風情で首を振っていた。

「おかえり」

「何してるわけ?」

「家族団らん」

「そうじゃなくて」

ナマエの見当違いな答えに再び脱力しかけるイルミだったが、気持ちを立たせて腹を据える。
ここで萎えてしまえば、また彼女にペースを持って行かれかねない。

「これどういうこと」

彼女の肩を押して距離を取り、その間に指輪を突き出してみせる。
ナマエはきょとんと目を丸くして、そのあとぱあっと表情を明るくさせた。


「あ、綺麗になったのね。流石ナベさん!」


彼女にそう賞賛された執事は本名をワタナベといい、窓枠とガラスの隙間やフローリングの溝といったありとあらゆる隙間の清掃技術に定評がある屋敷の老執事である。が。
てっきり彼女の口から謝罪や逃口上が聞かれると踏んでいたイルミは、その困惑を隠さず表情に出す。

「お昼にミケのご飯をやりに行ったのよ。そしたらタライの中に落っことしちゃってさ。
 食べられはしなかったけど涎でべちゃべちゃだし何かよくわからない肉片は付いてるしで。
 ナベさんに聞いたら綺麗にしてくれるって言うから頼んだの」

「⋯⋯⋯」

「でね、折角だし磨いておくって。こういう所に気がつくって素敵よね。
 終わったら部屋に置いておいてって言ってたからそろそろ出来上がってると思ってたんだけど」

「もういいよ」

まだまだ続くナマエの言葉をイルミが遮る。長く長く息を吐く。
彼女の言う話が本当か嘘かはわからない。しかし、一周回ってもうイルミは半ばどうでも良くなっていた。


「イルミ」


名前を呼ばれて視線を上げるとナマエと目が合う。

「怒ってる?」

「⋯別に」

だと思った、と口にしたナマエはイルミが二の句を告ぐ前に顔を近づけ、彼の唇の端に触れるだけのキスをした。

ゆっくり顔が離れていく。


「やっぱり面白いね、イルミって」


ナマエはそう言って悪戯っぽく笑った。

自分から提案しておいて結婚記念日に飲みに行こうとしたそもそもの問題の方は何一つ解決されていないが、それすらも今となっては大した問題ではないように思えてくる。

彼女に掛かればやっぱり煙に巻かれてしまう。

「うるさい」

けれどナマエとキスができるならいいや、なんて思ってしまう自分にイルミはまたうんざりしながら抵抗しない彼女を引き寄せて今度は深く口付けた。

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