正気に戻って!



Pi Pi Pi Pi Pi 、Pi Pi Pi Pi Pi⋯⋯


耳元でしゃかりきに持ち主を呼ぶ端末機に、イルミはゆるゆる目を開けた。

時計を見る。午前5時。

今日、仕事の予定はないからこの電話はプライベートのものだ。寝ぼけ眼で輪郭のぼやけた端末を手に取る。
黒い液晶画面には一文字、<ナマエ>と表示されている。

最近ヒソカに並んで付き合いのできた人間。その彼女の名前である。

休日の早朝から耳やかましい着信音で起こされたせいで、これから電話口より紡がれる用件に対するイルミの精神的許容(ハードル)は上がりに上がっている。電話の向こうの彼女はそれを承知しているのだろうか。
――いいや多分、というか絶対してない。

また家のハムスターがご飯を食べないだの、ハムスターが子供を何匹産んだだの下らない用件だったら許さない、と心の中で毒突きながらイルミは受話ボタンに触れる。

「もしも、」

どうしよう!イルミ!と狼狽したナマエの耳をつんざく大声量が聞こえてきて、イルミはこれでもかと顔を顰めた。端末を持つ手を顔から遠ざけながら彼は遅れて後悔をする。失敗した。彼女からの電話を受けた時点でこうなることは想定しておくべきだった、と。
耳が痛い。比喩表現でなく物理的な意味で。

ボタンを連打し、ボリュームを落としてからイルミは再び端末を耳に運ぶ。

「⋯⋯朝からよくそんな大声が出せるよね」

『ついによ、ついにおかしくなっちゃったの!』

「ハムスターがどうしたっていうの」

『ハムスターじゃないわ』

きっぱりと否定された。
何言ってるの、と呆れ声のおまけまで付けて。


「⋯⋯⋯」


いつもいつも事ある毎にそれしか言わない癖に。ハムスターでないのなら何だというのだ。
徐々に彩度を取り戻しつつある視界で、イルミはヘッドボードに掛けてあった上着を力任せにたぐり寄せて腕だけを通す。そのまま枕元に積まれたクッションに上半身を預けた。

「じゃあ何の用なのさ」

『あいつよ! ヒソカのこと。イルミ何か聞いてないの』

「ああ⋯」、と一刻ばかりの間を置いてイルミはすぐに彼女の言う“何か”に思い当たった。


あれのことか。



あれ、とは。

「ボク、ナマエに告白しようと思うんだけど」


ヒソカの一途な恋模様のことであった。


「へー、そうなの。頑張って」

神妙な面持ちでそう告白してきたヒソカを一瞥して、何事も無かったようにイルミが端末に視線を戻すと、ヒソカはそんな真面目な顔のままその細い目をさらに細めて睨んできた。

「キミねえ、少しは興味持ってくれたっていいじゃないか」

「興味? オレが? 誰に?」

「いいよ、もう」

ヒソカはふう、とか細く息をつきながら言った。
その様子はさながら恋に悩める少女のようであり、イルミは心底気持ちが悪いと思った。

「ボク的にこういうのはハッキリと伝えた方がいいと思うんだよね。彼女ってホラ、強化系だし?」

お得意の性格判断にナマエを当てはめて語るヒソカだったが、イルミとしてもその意見にはおおむね賛成だった。
ヒソカの相談に対しまともに頭を働かせるつもりは毛頭ないが、彼女の性格からしてデートに誘ったりだとか花を贈るだといった段階的で遠回しな手段より、単純な言葉で直に好意を伝える方がいくらか効き目があるかもしれないと思われた。

そんなような事をイルミが言ってやると「だよね、そうするよ」とヒソカは満足げな笑みを浮かべたのだった。


『気ぃっ色悪う!!!』


いかんせん、この様子ではヒソカの試みは失敗に終わったと見える。

最善のプロセスを選択したとして、最良な結果が得られるとは限らない。

通話をスピーカーフォンに設定していたお陰で、ナマエの絶叫を回避することに成功したイルミはもう一度ボタンを何度か押して今度はボリュームを最小にした。

『昨日なんて夜じゅう追い回されて口を開けばスキだの愛だの⋯ううっ、生きた心地がしなかったわ』

彼女を見舞った不幸がどんなものだったかは想像に難くない。彼女も優秀なプロハンターとして決して身体能力が低いわけではなかったが、なにせ今回は相手が悪かった。
「何か変なものでも食べたのかしら」と露骨にヒソカの正気を疑うナマエに、欠伸を噛み殺しつつイルミは答える。

「ほんと、正気とは思えないな」

『悪夢よ、悪夢』

「ヒソカも物好きだよね」

『だいたいね、こっちにも選ぶ権利ってモンが⋯⋯今なんてった?』


――ピンポーン。


電話の向こう側で小さくインターホンの音がした。はっ!とナマエが息を飲む。

あいつ…何で私の家を、とホラー映画ばりに恐怖におののくナマエが呟く声をイルミはぼうっと聞いていた。
そういえば昨日ヒソカに頼まれてナマエの借り宿の場所を教えたんだっけ、などと思いながら。

少しして、カラカラカラ、と窓がサッシを滑る音がする。

途端、ナマエが固まったのが電話越しからでもわかった。小物が床に転げる音が聞こえる。

『やあナマエ。戸が開かないから窓から失礼しちゃったけどいいよね?』

『ようこそ我が家へ⋯っていいわけあるかあ!』

ナマエのシャウトと同時に、どがごん!と轟音が響く。おそらく今、彼女の部屋の壁に大きな穴が開いたところだ。
がしゃんばたんと耳障りな雑音に混じって、楽しげなヒソカの声がする。

『そんなに力いっぱい歓迎してくれるなんて嬉しいよ。さあ話し合いの続きをしようか』

『いやそもそも歓迎してないし話し合いの余地とかないしそれ以上近寄ったら殴っ⋯⋯いやいやだからああもうこっち来ないでええ!』

「もう切っていい? オレ眠くなってきちゃった」

『え、嘘でしょ、ちょ、助け⋯⋯』


プッ、ツー、ツー、ツー⋯⋯⋯


訪れる静寂。

後は2人でなんとかしてもらおう。強化系と変化系は相性がいいらしいし。ヒソカ曰くだけど。
坦々と響く不通音を止めたイルミは、今度こそしっかりと端末の電源を落とした後、再び這い上がってくるまどろみにゆっくりと身を任せたのだった。

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