たまには昔の話を
初めは何かしらの悪戯だと思った。
年間265日。
いや、ここ何年かは会社に寝泊まりなんて日もザラにあるから、それよりもやや少ないかもしれない。有休未消化率は今年も100%を元気に更新中である。
と、そんなことはどうでもよろしい。
とにかく、いつもの疲れ果てた帰り道の事である。
「なにこれ」
郵便受けに一通の封筒が投函してあった。封筒の中身は一枚の紙。
中身を開いて、ナマエは眉根を寄せた。
赤茶色いインクで印刷されたこの紙をみるのは初めてだった。しかし、これがどういうものなのかは一目瞭然。
だってはっきりと書いてあるから。
「婚姻届じゃない」
ふざけた悪戯。誰だってそう思う。
今だって毎日仕事に追われて彼氏も作らず女盛りをものすごいスピードで浪費している所だ。皮肉にも程がある。
「まったくどこのどいつよ⋯⋯タチの悪いことを」
どこの誰の仕業か知らないが、無差別的な悪戯であれば、少なくとも自分に対しての効果はばっちりだった。
喜べ、犯人。この攻撃は私に効いた。
三十路、いや二十八までには結婚してやるんだからみてろよ、と負け惜しみに近い悪態をついて、ナマエは婚姻届をびりびりに破きゴミ箱へと押し込んだ。
このくだらない遊びも、明日の燃えるゴミに出されて終わり。そう思った。
しかし。
ある時は読みかけの小説の一ページに。
またある時は会社のロッカーの中に。
そしてある時は知らない老人から手渡されて。
奇妙な悪戯は続いた。
しかも、どういう訳か犯人はナマエの部屋の中や会社の中にまで行動範囲を広げている。
「怖っ」
そんなことが幾度となく続き、両手の指では収まらなくなった頃、ようやっとナマエも危機感を覚えてきていた。
新卒でブラック企業に就職してこのかた、休み無く働いてきた。自分が何をしたというのだ。この上ストーカー被害なんて勘弁してほしい。
「⋯ねえ課長、この会社ってセ○ム入ってますよね?」
「んハァー!? バカなこと言ってねえで手ぇ動かせ!ただでさえSEの連中の皺寄せがウチに来てるっつーのに!」
「ひい!」
上司のアドバイスは拝めそうにない。
ばりばりと頭を掻きむしる上司の背中に、「ちょ、ちょっとコーヒー買ってきます」と伝えてそそくさとオフィスを抜け出したナマエは屋上に一時避難することにした。
「今日はデスクの引き出しか」
鉄柵にもたれ掛かって、見慣れた用紙をひらひらと風になびかせる。
こんな調子ではろくに警察に相談する時間もない。
警察に相談してどうするか。封筒についた指紋を取ったり、監視カメラの映像をチェックしたり。犯人特定の方法は様々あるが、今ナマエが一番やってほしい事と言えば、警察権限で犯人の名前を住民台帳で調べることだった。
と、言うのも。
夫となる人、の欄にはご丁寧に名前が記入されているのである。
イルミ=ゾルディック
「ううむ。やっぱり知らない」
最初の頃、気になって昔のアルバムを引っ張り出して見てみたけれど、そんな名前の奴はどこにもいなかった。
先日ナマエが自ら評した通り、何しろこれはタチの悪い悪戯である。適当な名前を書いた可能性だって大いにある。というか、その可能性の方が高い。
「はあ、アホらし。こんなことで国家権力が動くわけないか」
用紙の端をつまんでいた指をぱっと開く。
婚姻届はビル風に乗って、眼下に伸びる車通りの多い道路に舞い落ち、見えなくなった。
日々の生活で精神的エネルギーを消費し切ったナマエにとって、もはや怖いというよりやるせない気持ちの占める割合が大きい。
戻ろう、課長の頭皮が心配だ、とナマエは入り口を振り返った。
一歩、踏み出した足を止める。
「⋯⋯ん?」
ナマエから5メートルほど離れた場所に人が居た。
自分が来た時は誰もいなかったから、気づかぬ内に同席していたという事らしい。いつから後ろに居たのだろう。扉の開閉の音は聞こえなかった。
(別の部署の人かな?)
生地の良いスーツをまとっているものの、その背格好と雰囲気から勤め人らしさは感じられなかった。
ウチの会社、ビジュアル部門なんてあったかな、などと頭を捻りながら彼の横を通り過ぎようと早足で進んだ。
「捨てたの?」
男の真横まで来た時に、彼が唐突に言った。
「さっきの紙」
ナマエが思わず隣を見上げると、彼はそう続けた。
「見てたんですか」
「だって気になるじゃん。婚姻届でしょ、あれ」
「その距離からよく見えましたね⋯⋯あなたも休憩ですか? こんなとこに勤めてるとお互い大変ですねー。私はもう戻りますので好きなだけ居てください。それじゃ」
あまり長いこと此処にいると、また課長にどやされかねない。ひと息に言って立ち去ろうすると彼もまた口を開く。
「オレ、ここの人間じゃないんだよね」
中々解放されない。
三たび足を止められて、内心イラっと来ていたナマエはぶっきらぼうに吐き捨てる。
「へーえ、ならばどこぞの誰さんでしょうか」
「イルミ=ゾルディック」
「そうでしたか、仕事がありますのでこれで失礼し⋯⋯⋯、!?」
不意打ちである。
ストーカー被害に悩めるいち娘から、ブラック企業のいちプログラマー社畜モードに思考を切り替えていただけに、その一言の衝撃たるや凄まじい。
今回の事は誰にも相談していないから、その名前を知り得ているのは自分か犯人の二人くらいしか居ない。
「いまなにを」
「ただの自己紹介だよ。オレ達、初対面でしょ?」
「あ、ああ⋯、そうですね。そうですよね!」
「そうそう。全然婚姻届が返って来ないからさ、こっちから直接ナマエに会いに来たってわけ」
ダウトだ。こいつが犯人だ。
何百、何千分の一の確率で全く関係ないこの男とストーカーが適当に書いた名前が一致していたという可能性に賭けてみたが、その一縷の望みは容易く砕かれる。否、もっと悪い。全体重をかけてバキバキに踏みつけられた気分だ。
「と、いうわけで結婚しようか」
「謹んでお断りします」
「おかしいな。社畜の女を落とすには結婚を迫るのが一番効率的な筈なんだけど」
「お兄さんお兄さん、足元に頭のネジ落ちてますよ」
唇に人差し指を押し付けて、ろくでもない思案に耽るイルミを、ナマエは三秒きっかり眺めた。
例のストーカーがこんな奴だとは思わなかった。
外見だけを評価するなら、それは“いい意味で”である。
ナマエの拙い男性審美眼から見てもイルミは端正な顔立ちをしている。
「オレと結婚したら今の仕事はしなくていい。家事は執事に丸投げでいいし、広い庭もある。2、3オレの言いつけを遵守してくれれば、あとはナマエの好きにしていい。こんな高待遇の結婚他に無いよ。何の問題があるの?」
大いにありまくる。
しれっと大ホラ吹いてくる所とか、結婚を利害的に捉えすぎている所とか。上げればきりがない。
そもそも、何故彼はファーストコンタクトをぶっ飛ばして婚姻届を送りつけるなどという暴挙にでたのか。
「普通はですね、イルミさん。あ、ちょっとここ座って下さい」
これも何かの縁だ。
このもったいないルックスの変人に世間の常識というものを教えてやろう、とナマエはその場に居直った。
「結婚というのはお互いがお互いを好きになって、お付き合いを重ねて、山あり谷あり。プロポーズという一世一代の試練を経て。誓いのキス。それを乗り越えた選ばれし勇者がやっとたどり着く境地なんです。だから、気まぐれでちょちょーっとできるものじゃないんですよ」
ナマエの認識もやや誇張気味ていたが、仕方ない。なにぶん、幼い頃に蓄えた少女漫画の知識である。
「ふーん」
果たしてこの男はちゃんと聞いていたのか。
何とも関心薄そうにイルミは鼻を鳴らして、小首を傾げている。
「おわかりいただけました? そんならちゃっちゃとお帰りください」
「わかったよ。それが本当なら手順を踏めばいいってことでしょ?」
やっぱり。まるでわかっていない。
「ああもう」とじれったく声を漏らすナマエ。
「ですから、そういうことじゃ」
なくて、と向き直った所でイルミの長い人差し指がナマエの鼻先をつんと小突いた。
「もう婚姻届は書いたし」
と、イルミはナマエの腰をぐい、と引き寄せる。
「次はキスとプロポーズだね」
そう言うやナマエの顎を慣れた手つきで上げさせて、あっという間に唇を奪った。
そして、呆然としているナマエに顔を近づけて目線を合わせるとわずかに口角を上げて、穏やかに囁いた。
「ナマエ、好きだよ。結婚しよう」
どんどん早くなる鼓動を感じながら、おそらく、これが彼の特別な表情なのだと。
何故か、ナマエにはそれがわかった。
*
「と、いう事があったのよ」
「ふーん」
関心薄そうに鼻を鳴らす仕草は父親そっくりだ。
自分の膝に両腕を凭れる男の子に、ナマエは穏やかな目線を向ける。
あの後、言葉通り山あり谷あり。遅すぎるデートを重ねたのち、ナマエは姓を変える決断をしたのであった。
そして現在、ナマエはここにいる。
本当に広い、というか広すぎる庭はあったし、執事も存在していた。たまにこっそり家事をしては執事に嗜められながら、のんびりと暮らす生活を送るとはあの時の自分は想像だにしなかっただろう。
「そして、その時の課長がククルー観光バスの運転手さんよ」
「え! そうなの? ボクも会った事あるよ」
「全く別件で、後にイルミが会社の社長を抹殺したお陰で会社が倒産したの。で、社員三百人が路頭に迷ったのよ。なんだかんだ言っても課長にはお世話になったから、無理言ってそこに再就職させてもらったのよ…」
「父さん⋯⋯」
母子で遠い目をする。この仕草はナマエそっくりである。
「また訓練さぼってるだろ」
「げ。見つかった」
扉から現れたイルミの姿を見つけるや、息子は地面を蹴る僅かな音だけを残してその場から消えた。
この家に嫁いで、まずもって驚いたのが人間の潜在能力の高さだった。
自分以外の家族は息子を初め、執事達までが何トンもある扉を開けるし、目にも止まらぬ速さで移動できる。
ナマエにはわからないが独自の鍛え方があるらしいが、まさか自分の息子まで超人的な身体能力を身につけるとは思わなかった。
「⋯私なんか100メートル20秒台だったのになあ」
「なんか言った?」
「ううん」、と小さく首を振ってナマエはテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰を下ろすイルミに笑顔を向けた。
「たまにはさぼったっていいでしょ」
「オレがあれくらいの頃は一日中訓練だったし。あいつは集中力が足りない」
「半分は私の成分で出来てんだもん。当たり前だって」
ナマエの言葉にイルミは無言で片眉を上げてみせた。
ナマエはまた少し笑う。彼のその表情は、少し嬉しい時にするんだって事を彼女はもう知っているから。