HIDE AND SEEKS #1




「着いたぞ」


運転席から背面の小窓をカシンとスライドさせて、荷台で横たわっていたハルにクロロが声を投げた。

ハルは小さく唸りつつ、うつ伏せていた身体をもそりと動かす。そして、欠伸を噛み殺して両目をしばたかせた。
気怠げにさする額には、トランクの痕が溝になって真一文字にくっきり付いている。

あの後、しばらくして、どこまでも続くデザートロードの光景にすっかり酔うという、運転手にあらざりき理由で降板を余儀なくされたハルは、ハンドルをクロロに任せ、荷台で束の間の惰眠を貪っていたのだった。

ハルが上体を起こすと、俄にエンジン音が止んだ。そしてハルの鼓膜は微かな風音と自分の呼吸音しか拾わなくなる。
随分と静かな場所である。

どうやら此処が目的地であるらしい。


(時計無いからなあ⋯)


くきゅうと下腹から妙な小動物の鳴き声がすると思ったら、自分の腹の虫が鳴いていた。
正確な時間までは判りかねぬものの、空腹度から判断しておおよそあれから2、3時間走らせたあたりであろうと推察する。この野性的な直感はあながち外れても無い気がする。自分が怖い。

お腹すいた、何か食べるものくれないかな、なんてことを思いながら何気なく荷台の縁に手を掛けて飛び降りようとしたハルへ、クロロが思い出したように言った。

「あ、ハル」

「はい?」

「ついでにアレ持ってきてくれ」

そう言ってクロロはハルの後方のトランクをちょい、と指差す。先程までハルが額を預けていたそれだ。

「これですか? はいっと」

よいしょっと持ち上げる。ずしりと重みがある。両手で持ってやっと歩けるといったほどだ。一体何を収納しているのだろうかこのトランクに。
ずりずりとハルが持っていると言うより、半ばトランクに持たれているような形でそれを運ぶ。


(⋯重いぃぃい!!)


「いぃよいっ⋯しょお!」

どしん、と象が足踏みするが如き音をたてて、荷台の縁にトランクを落下させる。ここまで移動させるのにも一苦労であった。
荷台の縁がミシッ!と嫌な悲鳴を漏らした。

若干疲弊しつつ、ハルはこれ何が入ってるんですかねえと間の抜けた声でクロロに問う。

「ああ、そのまま持っていてくれ。持っているだけでいいから」

「持てないこともないですが⋯ってアレ? なんかいやな予感が」


クロロがゆっくりと近づいてくる。
嫌な予感がした。


「ああーもう、やめて下さいやめて下さいそれだけは⋯! うぐっ」

抗議せんと身を乗り出したハルの腰に、クロロの二の腕がするりと回される。ハルがその行為を認識するより早く、ぐいと引き寄せられた。

両手を塞いでいるために、重力より抗うことの適わないハルの身体は顔面から突っ伏すように従順に倒れていく。
くの字の体勢で落ち着く先は、クロロの頑丈な肩の上であった。


ハルの顔面がたちまち赤みを増す。


「歩くのは俺。あんたは黙って担がれてりゃいいの」

「それが嫌なんですってば!」

「あー暴れるな暴れるな」

「暴らいでか!!」

憤慨、というよりは羞恥の一心に限っていた。
もはや、うら若き乙女に対しての振る舞いとして不適切だというようなレベルでは無い。

「米俵か何かか!私は!またお得意の羞恥プレイですか!降ーろーしーてっ!自分で歩けますから!」

クロロの背中を握り拳でがむしゃらに叩いてみるが、びくともしない。おまけにぽかぽかやっているうちに拳の方がじわじわ痛くなってきた。瓦割りにでも挑戦している訳ではない。どんな後背筋持っとるんだこの男は、と脱力気味にハルは思い、クロロに一切の武力的な抵抗は意味を成さないことを学習したのだった。


言葉を発するエネルギーさえ失ったハルは、視界を下から上に移動するコンクリート礫だらけの地面からふと上げてみた。

改めて眺めてみると、この上なく気持ちの悪い場所だ。

見回すに、辺りは生活感などとうの昔に失ったビルディングの廃墟が立ち並ぶ不毛な一帯だった。所々が大きく崩れたコンクリートの中からはあらぬ方向にねじ曲がった鉄材が生え出でている。
ハルが見ている今も崩壊作業を進行させているようで、20メートル程先にある一棟の外壁からガラン、と欠けたコンクリートの一塊が地面に落ちて砕けた。

まだ日の入りまでは時間があるが、密集する建物が、光を遮り夕暮れ時のように薄暗い。
加えて、何者かに監視されているようなどこか落ち着かない感覚。これは単なるハルの思い過ごしなのだろうが。

しかし、この空間がその錯覚を作り出すことに加担し、それを助長させる役割を担っていることは確かであろう。

空気にいびつな圧迫感を感じる。ハルの背筋に冷や汗が流れる――。


(⋯気持ち悪い⋯)


本来ならハルの生理的に近寄りたくない場所である。

ハルは唇を堅く閉ざし、その不気味な空間を断絶するように頭を垂れて、米俵に徹するのだった。







何処かの廃ビルの一つなのだろう。ここは。

屋内に入った様で、段差が視界を通過したのを境に、絶え間なく吹き付けていたビル風を感じなくなったことで判った。
すん、と鼻をすすると籠もった地下室特有の生暖かく、カビ臭い臭気がした。

それにしても、これだけ砂礫まみれの中をよくも音一つ出さずに歩けるものだ、とハルは思ってみる。クロロの流暢な足運びは、空気の上を歩くように小砂を全く振動させない。

此処へきてから心なしかクロロの雰囲気に鋭さが増しているようだった。

ぴりぴり皮膚を刺されるような感覚に気圧されて、ハルもクロロに話し掛けようとはしない。


(帰りたい⋯)

クロロのスーツの裾をぎゅう、と握りしめた。


屋内に入ってからしばらく歩いてから、周囲の壁が狭まり布連れの音が聞こえるようになっている事で無数にある部屋の一つに入ったのだと気がついた。


(ここはどこだろう?)


まともな家具などは以ての外だった。

カーテンらしき布は見あたらない。というより最初から窓そのものが無かったのだから、あるはずが無かった。そこにあるのは唯一、ソファがひとつ。それも随分と年季の入りまくった代物である。
乾ききった粉っぽい空気を吸いこんで、クロロの背中越しにさかさまになっている部屋を見まわす。


なんとも色気の無い、灰色一色の部屋である。


無機質なビルの外観にまるで協調するかのように、無機質で息苦しい空間。
そこでハルは、ようやくクロロの高い肩上から解放された。

両脚をコンクリートの床板にゆっくり着けられると、床が踏み抜けないかどうかを丹念に確認したハルは。

ずっしり重量感のあるトランクケースをクロロに手渡しながら、この非常識な黒ずくめ男に物言わんと口を開きかけた。


とたんに、ガッ!!と、クロロのくの字も言わせない素早さで、その大きく冷たい掌に口を覆われた。


ハルが「ふぐっ」と鼻から奇妙な呻き声を漏らす。そのあと、その小柄な身体をびくっと強張らせる。
そしてあらゆる不安要素を混然とさせた黒い瞳で、ハルは無表情に自分を見下ろすクロロを凝視する。彼の表情からは、ハルの欲する情報は何も読み取ることができない。

瞬きもせず、こちらを覗き込むハルの口元を塞いだ手でそのまま顎を掴むと、クロロはハルの耳元に顔を寄せ、聞こえるか聞こえないかのやたらに小さな声量で言った。


「おとなしく此処に居ろ。できるだけ⋯いや、絶対に動くな声も出すなよ」


黙って聞いていれば、少女を拉致監禁した犯罪者の台詞である。

忠告か命令か。ハルがその言葉をどちらで受け取ろうとも、YES、またはNOと答えようとも、ハルの立場は変わらない。
むしろこの状況下でクロロを相手にして、NOを答えられるだけの腹をハルは持ち合わせてはいなかった。

首だけをこくこくと小刻みに振って、承諾の合図をクロロへ送った。

クロロの言葉の真意については皆目検討がつかなかったにせよ、どこか焦っているようなクロロの鬼気迫る様子に気圧された末の承諾であった。


「俺が戻るまで動くな」

そう言い残し、こくんと頷いたハル一瞥して、クロロは性急に二人が入ってきた入り口から、暗闇に溶け込む様にして姿を消してしまったのだった。


(⋯⋯襲われるのかと思った)


人気の無い場所に連れ込まれて、いきなりあんな顔で口を塞がれたりなんかされたら誰だってそう思う。

とりあえず、束の間の身の危険は回避できた模様である。

ずっと肺に溜め込んでいた呼気をゆるゆるとはき出すと、身体の力が僅かだが抜けたような気がした。余計な力が抜けると、少しは今の自分の状況について考えられる余裕も出てくるというもの。


(これは⋯いわゆる放置プレイってやつなのか?)


先程の羞恥プレイといい何といい。ハルはひとり首を捻らせて考え倦ねた。

あげくの果てに、変態カップルだったという可能性に思い当たるという、クロロと記憶を失う以前の自分に対して失礼極まりない憶測をめぐらせ、ひとり神妙な面持ちでその場に踞るハルなのだった。










っんく、

とハルは音をめいっぱい最小限に抑えた、それは果たして、くしゃみであるかどうか疑わしいくしゃみをかました。


そして、すん、と小さく鼻面を擦った。


(とにかく、音を立てなければいいわけであって、この場合、こっそり窓からでも⋯って、窓無いんだった!)


それは大胆すぎるし、人間的にもどうかと思われる行為である。
ハルは人間の尊厳と生理現象の間で揺れていた。かれこれ小一時間程、時に先程からだんだんと間隔が短くなってきている尿意を我慢しながら、ハルは静かに唸る。彼はトイレの所在など言い置いてはくれなかった。

立ったりしゃがみ込んだりをくり返すハル。もうかなり限界の光が近い。

ハルは“待て”をさせられている忠犬ハチ公よろしく、主人もといクロロの帰りを待ち続けていた。
しかし、待てど暮らせどクロロが帰還する気配は微塵も無く、尿意とともにハルの不安も刻一刻と蓄積されつつあった。

外の空は着々と青から紫へと表情を変化させているのだろう。

元来薄暗かった室内が更に刻一刻と暗闇に飲まれていく。もう部屋の隅にあった壊れかけのソファーは、輪郭すら闇と同化してどこにあるのか判断できなくなっている。

それらを横目で見やったあと、ハルは、抱え込んだ膝の上に顎を乗せて息を吐いた。


「ああもう、帰りたい」


初めて、そう呟いた。



「ハル?」



ふいに、背後から声がした。

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