TRAVELLERS #1
「またイチからやり直しか」
ハルが部屋の隅のバスルームへと逃げ込んでいった後のベッドで、クロロは体を投げ出して小さく舌を鳴らした。
固く閉められたプラスチックの扉の向こうから、水音が断続的に漏れ聞こえている。大方シャワーを浴びて、冷静になろうとしての行為だろう。彼女は混乱するといつもこうして身体を流す。恒例の儀式の様なものだ。
しかし冷静になりたいのはクロロも同じであった。
「⋯頭がどうにかなりそうだ。どうしたらいいんだ?俺は」
*
市街地の中心部にある高級ホテルの大理石が敷き詰められたロビーを、2人の男女が歩いていた。
正確には、カツカツと一分の弛緩もなくヒールを鳴らして歩くスーツ姿の男の後方で、小柄な女が脇目を振りつつそそくさと男の影を縫うように纏わりついていた。
男が右へ曲がると、ワンテンポ遅れて女が全力で男の背中に張り付き、立ち止まろうものなら、ふぎゃ、と猫に似た悲鳴を上げて顔面を背中にぶつけている。
男にとっては邪魔なことこの上なかった。
それと同時に後ろに向けられる、周囲のまるで珍獣をでも見るかのような目つきも男にとってはこの上なく痛い。
「⋯⋯ハル」
「うっ、はい!」
一瞬たじろいで、勢いよく挙手するハル。
お前はどこぞの小学生かというツッコミを心の中でして、クロロが声を低める。
「もうちょっとヒトの子らしい歩き方はできないのか」
「それ私がヒトじゃないみたいじゃないですか。今は人が怖いんです。もし仮に私の記憶を奪った念能力者が近くにいても、何も解らないんですから」
ハルが口を尖らせて反駁する。
そして、ハルのその言い分はあながち外れてもいなかった。もしその念能力者がクロロの記憶を狙ってハルに近づいて失敗したのであれば、再度二人に近づくだろうし、それを察知する手段は今のところ無い。
クロロは内心感心する。時たま彼女は、そうして中々に鋭い判断力を発揮することがあるのだ。それに免じてクロロは彼女に呆れた視線を落とすのをやめた。
「⋯自覚している暇があったら、早く何か思い出してくれ」
*
無言で黙々と歩き続けるハルとクロロ。
辺りの建物は全て赤褐色を帯びたレンガと、風化して所々崩れかかっている白い石膏で構成されている。
複雑に入り組んだ、もはや迷路と言っていいようなほど入り組んだ裏道を、立ち止まることなく捷歩してくれるクロロを見失わぬよう、ハルは必死になってその後を追う。
ほどなくして、ふいに景観は建造物に一面を囲まれている開けた広間に変化した。
2人はそこの石畳のアプローチへ足を踏み入れる。
切り揃えられた石畳は中心へと向かって渦巻くように等間隔で配置されている。
丸く切り取られた空からの光にハルは思わず目をきゅう、と細めた。
広間の中心から向かって東の建造物がそこで途切れていた。
断絶された建物どうしを繋ぐかのようにして、5メートル程の高さの付近にアーチ状の石橋が掛かっている。広間への入り口の中では一番大きい。
橋の上を人々が忙しく往き来しているのが見える。一見門のような入り口のむこうは一般道らしく、忙しく車が行き来していた。
その橋下になにやらある。
遠目からそれが車だとハルは認識する。
そこには大型ダンプカーがでん、と構えていた。
黒一色の躯を振動させて、すでに力強くエンジンを滾らせている。
クロロはホテルからずっと持ち歩いていた随分と年季の入ったトランクを荷台に放り込んだと思うと、さっさと助手席へと乗り込んだ。
そして、サイドミラー越しに久しぶりに言葉らしい言葉を口にした。
「乗らないのか」
(これに乗れと言うのか⋯)
別に小洒落たオープンカーを期待した訳ではなかったが、これほど雄々しい10トンダンプが待機しているなどとも予想だにしていなかったハルであった。
しかもあからさまに自分に運転を任されている。
クロロの話では以前は運転手もしていたようなので車も動かせない訳では無いのだろうが、これを乗りこなせるのかどうかは限りなく不安である。
とにかく、ハルの立場からしてもこんな右も左も判らぬ処で置き去りにされるつもりも毛頭無い。
ハルも急いで反対の運転席に飛び乗り、アクセルペダルを踏みこもうとした。
まさにその一瞬の出来事である。
ハルの右足がペダルの重みを感じるか感じないかのうちに、野太い唸り声をあげて黒い塊は猛然と発進した。
「!?」
すさまじいGが架かり身体が背凭れに押し付けられそうになるのを、なんとかハンドルにしがみつくハル。
「えっ、ええええ!!」
全く状況が飲み込めずにただ叫ぶ。
その間もダンプカーはそこが一般道路とは思い難いスピードで加速し続ける。
「おい、大丈夫か」
「この状況をふまえた上での発言がそれですか!!ぎゃああ!ぶつかる!!ちょ、と、ブレーキブレーキ!!」
「ああ、そうそう、この車ブレーキ利かないんだ」
「先に言えぇ!!」
次々を前方車の間を間一髪で縫って、黒い巨漢はありえないスピードで市街地を行く。
「やっぱりこのダンプは無理があったか」
「⋯!」
「記憶が無いならいけるかと思ったんだけど。ほら、前見てろよ」
「わ、私の過去にいったい何が!?あわわ⋯善良な市民の皆さんが次々と歩道へ反れて⋯」
「本当だ。現代版モーゼの奇跡」
「ジーザス!!」
必死の形相でハンドルを操作するハル。クロロのまるで呑気な発言を追及している余裕など皆無だった。
ハルの身長の半分以上ハルタイヤは黒い砂塵を巻き上げて、対向車の窓を曇らせつつ閑静な真昼の住宅地を疾走したのだった。