CHAIN RECORDS #2




「むふう⋯⋯」


ハルは鼻から声にならぬ音を漏らす。
駄犬の寝言にも似たその音は、昼のまろみきった部屋の空気を振動させて男の耳に届くや、彼の整った眉をさらに顰ませる切っ掛けとなった。


「本当になにも?」


目の前の男は、二人の間を暫し流れた沈黙を破って、慎重に口を開いた。「ええと⋯」


「⋯全く、わからないのですが」


「⋯⋯」


咄嗟に眉間を押さえる。

ぐるぐると渦巻いていた不安因子はその彼女の決定打を授かって確信を帯び、男の思考能力を一瞬にして奪い去った。


信じられない、これは悪い夢か。


そう男は、

クロロ=ルシルフルは、心の中で悪態をついた。



「なにか、原因に心当たりは?」



「特にこれといってありません⋯」そう罰の悪そうに言ってハルは肩を丸めた。

ハルはクロロから昨日一日の話までをハルはシーツ一枚に身を包み正座をし、彼はハルの眼前に仁王立ち、という格好で聞いていた。

自分のこの言葉が見知らぬこの男にどれだけダメージを与えるかは重々承知してはいる。慎重に言葉を選びたいのは山々なのだが、自分に記憶が無いことすらも不明瞭な今はこうとしか言えなかった。何となく自分が悪いような気がして語尾も必然的に尻すぼみになる。


「⋯⋯⋯」


その言葉を聞いたクロロは、やはりハルの予想に忠実に頭垂れていた。彼はにわかに軽い眩暈に覚え眉間を押さえた。

考え得る限りの確率と状況を重ねるが、どれも彼女が記憶を喪失する原因は見当たらない。とんだ事態になった。

「⋯全く予想外すぎる。これからどうすればいいんだ?お前を俺は。朝起きてみたら記憶喪失でしたなんてどこぞのB級少女漫画の夢物語でもあるまいし、普段から夢の世界に片足突っ込んで生きてるような奴だったがとうとうそっちの世界に半身を置き忘れてきましたとかそういう話か?」


「も、申し訳ありませ、」


早口でそんなことをまくし立てられて、只々平謝りをするハル。ろくに返せる言葉も思いつかないまま、辟易して、こめかみからだらだら冷や汗を垂らすばかりである。
それを見下ろしてたっぷりと深いため息をつき、明らかに苛々とした様子でクロロは近くの椅子にどっかと腰掛ける。


「あのう⋯」


まごつきながら呼びかけると、男が目の端でこちらを見る。
ハルはびくりとするものの、顔を上げて、彼の言葉を待った。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯」


沈黙に答えるのは沈黙である。
ここは喋れということであろう。ハルはおずおずと彼を上目づかいで見上げる。



「お名前、なんとお呼びすればいいのでしょうか⋯」

「⋯な、」


少し間の空いた後、男は何とも形容しがたい表情でハルを凝視してきた。



一瞬、何かされるのではという恐怖心からハルの身体がビクッと強張る。しかしそれは違った。

常温の牛乳を我慢して一気飲みした後のような顔。という表現が正しいのかそうでないのかはわからないが、ハルはそれに一番近いものを感じた。

どうやら顔面は鬼気迫っているが、雰囲気から察するに危険はないらしい。


確かにこの男の身になって考えてみると、連れ(おそらくその様なものだろうと、ハルが検討をつけた)の突然の記憶喪失という中々ヘヴィな状態に一人で対応しなければならないのは、ある意味この状況を作り出した張本人の自分よりも気の毒なのかもしれないとハルは他人事のように思ってみる。



顔の筋肉を弛緩させて、微妙な表情でもしていないとやり切れないに違いない。

しかし、そんな面白可笑しい顔を無闇やたらにこちらに向けないでほしいとハルは思った。

次は、思わず吹き出しそうになってしまう口元を制御するのに、ハルは目を白黒させる。



「ぐっ⋯そんな顔、⋯⋯反則、んぐうゲホッ」



緊張感の欠片も無い。


ついに笑いを我慢し過ぎて、咽込んでしまったハルをやれやれといった体で白眼視して、男はデスクにあった潰れた煙草のケースに手をかける。


「ゲホッ⋯ええと、じゃあ私は一体⋯⋯何者なんでしょうか」


ハルはむせこみすぎたせいで涙を滲ませた目でクロロに問うた。


この男は自分はクロロ=ルシルフルだと、そして「お前はハル。最初はあんたが俺をナンパしてきたのが縁で知り合ったが、ひょんなことで俺への借金のカタに売られたのを、無償で働くのを条件に買った。俺の付き人兼、世話係、ドライバー、後は…ボディガードか、まあこれは実のところあまり役に立った覚えは無いが。
オレの言いつけた事は万事抜かり無く。まあ総合すれば⋯与えた仕事をマルチにこなす俺の右腕みたいなものなんじゃないかな」

そんな感じに理解してくれ、と言った。


「な、ナンパですか」


ナンパや借金のカタがうんたらかんたらという事は事実なのだろうか。自分は仮にも聖職に従事する者のハズなのだが。前半がやけに気にかかる。
それにしてもどう考えても一仕事において腕の立つ右腕という雰囲気が、微塵も伝わってこないのは何故であろう。

そしてハルは一つの答えに行き着く。



「えっと、その話を総合すれば、その、つまるところ私は」




たっぷりの間を置いた後、

パシリじゃないですか、とハルが頭を垂れた。









ハルが劇的な起床をしてから3時間前後になる。



その時間は全て、ハルの記憶の補充、もとい再構成に費やされていた。

ハルは過去20数年の内、所々の記憶が飛んでいる。それハル特定の人物に関係する記憶であったり、半年間〜1年の記憶がすっぽり抜け落ちていたり、と規則性はない。
しかし運の悪い事に、クロロ=ルシルフルの関しての記憶は、その出会いから現在までの経緯から彼そのものに至るまで、すべての記憶が失われていた。

借金の形に人身売買。クロロはさらりとのたまってはいたが、どうやらハルは、自分は、普通の身の上では無さそうである。一体自分を売り飛ばした人物はどんな輩であるのだろう。きっと相当な悪人に違いない。不安を覚える。

そろそろ疲れも溜まってきて脳がブドウ糖を要求しているが、単純にクロロから話を聞くだけという作業はハルにとってはそう苦では無かった。

無駄に問い詰められたり、脳内を小難しく精密検査されたりするよりはよっぽど楽だからである。



「じゃあその第3エンジンの硬化オイルがゆくゆくは第二次世界海戦を引き起こしたんですか!」


ハルがぽんと嬉しげに手を打つ。


「そう。ヒッグス博士の標準量子理論はそこで初めて立証されることになる。皮肉だな」


男が机上ですらすらとなにか文字を綴る所作をしたその手で、ポケットをまさぐり、煙草を取り出す。
しかし、吸う気は無いのか、火は点けずに唇に挿んでは、只そのままにしている。


「なるほど⋯盲点だった⋯」


ハルは、そう言うと神妙な面持ちで唸る。



会話をする内に議題は大分逸れ、最終的に得体の知れない博士のなんたらかんたら理論といった意味不明な話をもって小休止を迎えた。



 唸ったところでハッと我に返る。こんなところで楽しく歴史の授業を受けている場合ではない。


 博識な彼の話が妙に面白かったせいで脱線に脱線を重ねてしまったことを反省しつつ、ハルは自分の失われた記憶の手がかりになりそうな事はないかと頭を捻る。


「そうだ」不意に何かに思い当たったように、ハルがおもむろに顔を上げた。



「あの、ルシルフルさんはわたしのフルネームは知らないんですか? でなければ出身地とか」


 自分の出生に関わるキーワードに触れる事で、何かしらの記憶の蓋が開くかもしれない、と幾ばくかの希望を持って投げた質問だったが。


「知らない」


一言そう返される。
一向に短くならない煙草を咥えたまま喋る所為で声が篭っている。そうしたのはクロロであるが、彼は俄然煩わしげな表情を露わにする。


 ハルは目に見えてがっくりと頭を垂れた。



「まあ、そりゃあそうですよね⋯」



確かにそれが判っていれば、さっさと住民データなどを漁れば一件落着な話である。事はそう簡単な話ではないようだ。



「あんたにいくら聞いても“自分の事は知らない”の一点張りだったんだよ。俺が知ってるのは名前と担保として俺に押し付けられた事実くらい。そのくせ大した使えないし。そりゃあもう厄介な女だったよ、色々と」


「ぬぐっ⋯⋯」



 今のハルならいざ知らず。
 
 記憶を失くす前の自分までお荷物扱いをされる始末である。彼の言う事はおそらく事実であるが、それゆえに少々ふてくされつつハルはぶつぶつと自虐を吐く。


「⋯そんな厄介者だったなら、ホイホイ見捨てちゃえば良いんじゃないですか。きっと今が絶好のチャンスですから」


 ハルの悔し紛れに出た言葉に、クロロの眉が小さく顰められる。


「捨てるかどうかは俺が決める」


 そう独り言のように言った。「だから」、と彼は続ける。



「俺はあんたの素性はいまだにわかってない。何処から来たのか何者なのかも。そういった意味では今のこの状況は知り合った最初の頃となんら変わりない、とも言えるわけだ」


そう言ってクロロは灰皿に咥えていた煙草を、ぎゅっと押し込んだ。
3時間分の⋯一口も吸われていない吸殻の山に。

そして口角を僅かにもたげ、自嘲的にも見える冷笑を形繕った。先ほどから見ていて判ったのだが、この掴み所のない冷ややかな笑みが彼の特徴であるようだ。


「なっ⋯⋯!」


彼のその言葉に何か思うところがあったのかなんなのか、ハルは目を丸くさせてその口をぱくぱくと動かしている。


「そ⋯、そんな名前も素性もろくにわからないような小娘に付き人だのボディガードだのを頼ませてたんですか!? なに考えてるんですか!
 詐欺だのストーカーだのがひしめくこのご時世で⋯なんて無用心極まりないことをしてるんですかあなたは! お財布とか盗られたらどうするんですかあ!」


自分がその素性不明の怪しい女であるということも忘れて、うがー!とハルはクロロに食いかかっていく。


「うるさい」


そう言うと、ハルの大声に不快感を露わにして、こちらに食って掛かるハルの額を一指し指でぐいと押し戻す。
彼女は「うっ」と力なく声を上げてよろめき、背後のベッドに尻をついた。


単細胞というか直情型というか。

よく言えば真面目、悪く言えば頭が固い。つまり度が過ぎるほど真面目でその上熱血気質、というのが、彼女の持って生まれた性質なのである。


「そっちに迷惑が掛かる話でもないだろ」


「まあ、そうですけど⋯」と言ってハルは腑に落ちない表情で額をさすっている。



「そもそも名前や素性なんていくらでも偽証できる。むしろ俺の界隈では本名名乗りながらのこのこでてくる奴の方が珍しくて、そんな奴は大抵頭の回らない素人か、相当腕に自身のある人間」


(それは⋯⋯一体どこの界隈の話なんでしょうか)


椅子に深く背凭れたまま、クロロは泰然とそう言い放つ。

ハルはひとり、クロロが身を置くコミュニティの物騒さに悶々と疑問を呈する。


「うう。じゃあ何ですか。ルシルフルさんも本名じゃないってことですか? 本当の名前は?」

唇を尖らせたまま言う。



彼は、「クロロ=ルシルフル、これが本名だよ」そう口にして、挑戦的な笑みを形作ってみせた。



ハルがさらに視線に不信感を加えて、どこまで信用すれば良いのか解らないこの男、クロロ=ルシルフルに湿ったるい視線を送ったのだった。


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