STARTING OVER




だって綺麗だったのだ。仕方がないじゃないか。

あの光る液体からは不思議と目が離せなかった。此方に擦り寄ってくる猫をもふもふしたい衝動に抗えないように。
⋯⋯なぜ今そんな例えを想像したのだろう。でも、そう例えるのが最も適当のような気がした。


「馬鹿。ほんっと馬鹿」


視力ゼロの世界から帰還してすぐ。ハルは仁王立ちのシャルナークを前に正座をしていた。
向かいあう人物こそ異なるがこのシチュエーションはいつかの朝をトレースしてきたような、どこかで見たような光景である。


「もしあれが攻撃だったらどうしてたの? ただの目くらましだったから良かったものを」


シャルナークの説教は端的だが歯に布着せずこちらの非を冷静に挙げ連ねるものであり、ハルは「はい⋯」としか言えずただひたすらその場にしょんぼりと縮こまっていた。


「一瞬でお陀仏だったんだからね。わかってる?」


先ほど、延々と続く説教に耐えかねたハルが「も、もうそのへんで」と言ったところ、怒られてる側のセリフじゃないと、余計火に油をそそいでしまった。

記憶が無かったのは言い訳にならないというシャルナークの言い分は最もだ。
しかしそれはもともと応戦できるだけの実力を備えていることが前提の話であって、実力どころか色々なものが足りないハルにとってはいささか適さない話ではある。それを言ったところで説教が長期戦に突入するだけなのは目に見えているのでハルはこうして沈黙するしかない。


「その辺にしとけよ」

少し離れた場所からフィンクスが言葉を挟む。


「勝手に行動して死のうが要はこいつの自己責任だろ」

「そうだけどさ。ハルの場合に限っては確実に俺らの責任になるじゃん」


たしかに、とフィンクスは気のない相槌を打つ。彼なりにシャルナークをなだめてくれようとしたようだったが、積極的に止めてくれるつもりはないと見える。ハルは恨めしげな視線を彼に送った。



その場にいた面々が各自視力を取り戻した頃。
女は影も形も無く消えていて。


そして。



ハルの記憶はものの見事に戻っていた。



「―――ああ、わかった。了解」いつのまにか、何処かへ電話をしていたフィンクスがピッと通話を切ってハル達に振り向く。


「もうすぐ団長とマチも合流するってよ」

「えっ、もう⋯⋯ちょっとトイレ」

「だめに決まってんでしょ」


背を向けて這いずりかけたハルの腰ベルトがシャルナークにがっちりと掴まえられる。

ハルもハルとて本気で旅団員を前にして逃げられるとも思ってない。記憶が戻った今になれば、彼らがどれだけ超人然としているか分かる。彼らの中に入ればほとんどの人間がお荷物扱いだろう。ハルが弱すぎるのではない。彼らが強すぎるのが原因なのだ。


「あ、おかえり」


シャルナークの一声。それと同時に掴まれていた手が離された。

蓄積されていた運動エネルギーが一気に解放されて、顔面から前のめりに突っ込む。地面とのハグを回避できたのはそこに人物がいたからだった。


「⋯⋯⋯」


頭頂部に冷たい視線が注がれているのをひしひしと感じる。

そろりと見上げた先には。
静かに佇立して此方を見下ろすクロロ=ルシルフルがいた。

久しぶりに会うようなそうではないような。なんだか不思議な感覚を覚える。これも記憶を盗まれていた弊害なのか、⋯⋯なんて悠長に再会の感想を考えている場合ではない。


(む⋯⋯無表情⋯⋯!)


目が怖い。
どうにか笑って煙に巻こうと引き攣った笑顔を浮かべるハル。


「無事戻ったみたいで⋯⋯一件落着っていうか! あ⋯あははは、ああっ待ってくださいぃ!」


無言のままくるりと踵を返し、遠のいて行くクロロをハルが慌てて追いかける。

廃ビルとは反対方向へ消えて行く二人の背後へと、シャルナークが「俺ら先戻ってるよー」と、間延びした声を投げた。







「はあ、はあ⋯⋯く⋯クロロさ⋯、足早っ⋯!」


ほぼ全力の走りで早歩きの人間に追いつけないとはどういうことだ。
ぜえぜえと肩で息をして、日頃よりろくな訓練をしていなかったことをハルが後悔し始めたタイミングでようやくクロロが立ち止まった。

数秒遅れでその背中に追いつく。


「うぐ⋯⋯すみません、ご迷惑をおかけしました」

「まったくだ」


初めから素直にそう言えばよかった。


クロロが顔にかかる髪を煩わしげにかき上げてハルに向き直る。
この彼をここまで憔悴させるのは古今東西探しても彼女くらいのものだろう。突然の記憶喪失などという冗談のような現象に巻き込まれるなんてのもやはり、彼女くらいのものなのだったけれど。


「もうすっかり元に?」

「たぶん。クロロさんのことも他の皆のことも分かりますし⋯⋯なんで私が狙われたのかは結局、分からないままですが」


こうもあっさりと解決したと言われると逆に疑わしくもあるが、もしも失われたままの記憶があろうと他人はおろか本人にも自覚が出来ないのだから奪われるのが記憶だけというのも案外タチが悪い。
もともと曖昧なものであるせいで、念によるものなのか忘れてしまっただけなのかの判別だって難しい。女にさっさと逃げられた今となってはその目的すら不明である。


「すっかり戻りました」


つまり、これ以上の詮議は不毛だ。
はあっとクロロが大きなため息を吐いた。

もう言うべきことはありませんとばかりにクロロを凝視するハルの開き直りじみた態度には少々考えさせられるものがあるものの。彼の中では既に、その事に関しての興味は薄れていた。

暫く無言の時間が経過して、痺れを切らしたようにクロロが口火を切る。


「あいつに何をされた」

あいつ、は言わずもがなヒソカの事である。実際のところ彼にとってはハルの記憶よりも何よりもこれが苛立ちの根本的な理由になっていた。が、何度も言うようにハル自身はその自覚には乏しい。


「へ? ああ、ええっと⋯⋯」


こういった部分に関してハルは記憶を取られていようがいまいが、さほど関係は無いようで持ち前の鈍感さを存分に発揮していた。自分に向けられている不穏極まるオーラに、単純に居心地の悪さを感じてハルは視線を横に泳がせ、その反応がクロロをさらに苛つかせる。


「報告するようなことは何も」

「言え。忘れていた時の記憶を忘れた、なんて都合のいい話だったら怒るぞ」

「⋯⋯なんでクロロさんが怒るんですか」


「べつに⋯⋯」と、ハルがいまいち煮え切らない態度をとる背景には、彼女は彼女で言いたくない理由を持ち合わせているがゆえだった。ひと度、口にしてしまえば負けたような気分におち入りそうで。


「何してたも何もこれを見られただけですってば」


後ろ髪から首元へと手を滑らせる。
この首輪はハルの育ての親であり、クロロに自分を売った張本人である彼女が残していったものだ。

あの時彼女はこれが商品タグのようなものだと言っていた。今になっては迷いなく思い出せる事だが、これに念が込められていたのはヒソカに指摘されるまでハル自身も知らなかった事だった。


「この首輪の細工のこと、あの人からなにか聞いていますか?」

「細工?」

「たしかヒソカさんがこれに念がどうとかって」


クロロの片眉がぴくりと反応する。
静かに距離を詰めてきたクロロの影にハルがびくりとたじろぐ。彼の様子が平穏かそうでないかと問われれば明らかに後者だと言えよう。


「見せてみろ」

要求というよりは命令の色合いが強い。


「⋯⋯あの、もういいじゃないですか。私としてもあれは忘れちゃいたい事故というか災難というか」


言いたくなかった理由はそこにあった。クロロに言われずともあれだけ敬遠していたヒソカに背後を許してしまったという事実はハルにとっても、それなりに悔やまれるものだったのだ。

このクロロとの微妙な関係ですでにお腹いっぱいなのである。何かとちょっかいを出してくる奴にはこれ以上セクハラ人員が増えては敵わない、と極力近づかないようにしていたのに。まんまと接近された挙句、奴を庇いまでしてしまった事はまごう事なき失態だったし、それが身から出た錆ならなおさらである。出来れば今すぐにでも忘れてしまいたい。

しかし、そんな彼女の本懐は容易く却下される。


「所有物の付属品の不備を確認するのも持ち主の役目だろ。違うか?」


(またもっともらしい事言いおって⋯⋯)


拒否されればされるだけむきになる、見かけによらず負けず嫌いな性格をしている。いつもこうして子供のような顔を見せたかと思えば、強引に迫ってくる所為で最終的には押し切られてしまうのだった。


こうなってしまえばハルがいくら拒否しても埒が明かない。
クロロが発する無言のプレッシャーに、ついに根負けしたハルはしぶしぶといった表情で後ろ髪をまとめ上げ、うなじを晒す。

背後から体温の低い手が首筋に遠慮なく触れてくる。距離の近さを肌で感じ、この何度経験しても慣れない刺激に軽く身震いが起こる。


「あんまりじろじろ見ないで下さいよ。クロロさんまで」

「クロロさんならいい、って言えよ」


一体、その自信はどこからくるのだ。
徐々に身じろいで逃げ出そうとするも、その度に短い言葉で制される。それどころか。


「⋯⋯そろそろいいですか」

「まだ」


首輪を検分していたはずの指先がいつのまにか。ハルの反応を愉しむような動きに変わっている。まずい。このパターンには覚えがある。非常にまずい。


「ちょ、そこ、くすぐったいです」

「動くなよ。あともう少しで書いてある文字が見えそうなんだ」


あともう少し。

さっきからそう言いつつもばかに時間がかかっている。
だんだんと不穏な方向へ流れていく空気を感じ、しばらくそわそわと我慢していたハルだったが、クロロの人差し指が鎖骨を強く撫でたところでついに堪らなくなって飛び退いた。


「やっ⋯⋯ほんとに⋯もう! くすぐったいから駄目ですってば!!」

クロロの手を振り切ってようやっと彼から距離を取るハル。背後でかすかに舌打ちが聞こえた。やはり確信犯だ、この男。ヒソカに分かってクロロが分からない道理はない。


「えっと⋯!そうだ、つ、次の行き先とかって決まってるんですか」


逃げるようにハルは話題の転換を試みる。
みょうに生々しくなってしまったこの空気をどうにか収拾しようと必死な彼女を冷めた目で流し見て、クロロは素っ気なく答える。


「無い。この騒動のお陰で計画してた予定は水の泡だしな」


なんとも当てつけがましいその言い草にどうせ盗みでしょうに、と内心呆れるも。

彼に付き従っている以上、そこに文句は挟めないハルである。むう、と考え込んだ末に「⋯⋯わかりました、なら」と、なにか腹を括った表情を浮かべた。


「一ヶ月タダ働きで手を打ちます」


クロロに身柄を売られてから早半年。

早々に自分にかかっている債務を返済し終え、自由の身になりたい彼女の立場からしてみればこれでも相当な譲歩である。
この先、今回の事を盾に断り難い要求を吹っ掛けてられるのは目に見えている。一ヶ月のタダ働きは正直惜しいが、少々の犠牲も今後のことを考えれば致し方ないと自分を納得させる。

そうやって、ひとり個人的な覚悟を固めたハルとは反対に、クロロは「へえ」と、彼女の態度を品定めするように片眉をもたげた。


「いいや、足りない」

「そんな!これ以上はびた一文も⋯⋯っ!」


まけられません!と続くはずだったハルの言葉は声帯を過ぎる前に引っかかって止まる。クロロがハルの首輪を掴み、顔元まで強引に引き寄せた所為だった。
真っすぐに此方に向けてくるクロロの暗い目は相変わらず冷ややかだったが、思わず見入ってしまうような魅力があった。
首輪と同時に左手首も捕らえられその場に無理やり固定させられる。


「このツケはきっちり回収させてもらうさ。俺の裁量で、ね」


クロロの言葉を聞き咎めるより早く、ハルの目には余裕綽々な笑みを浮かべる彼が映っていた。その悪戯に上がった口角が目に入り、額にさっと嫌な汗が浮かぶ。


「こっちは昨日から焦らされまくってるんだ。それくらいは大目に見てもらわないと困る」


耳元で囁かれた小さく掠れた低音。
一瞬でクロロの言葉の真意を理解したハルの顔はざあっと青く染まり、その後、みるみるうちに赤らんでいく。


悲しいかな、自分が彼をナンパしたのも本当。育ての親に売られたのも事実。

結局、クロロが自分を連れている理由自体は確かに存在していた。
クロロは他人に情けをかけるような人間では無い。借金なんてもってのほか。それどころか金品を粗方奪ったうえ、少しでも不都合があれば後腐れが無いようにさっさと殺して数秒後には忘れてしまえるような人間であるクロロが、何故いつまでも自分のような人間を手元に置いておくのか。そっちの理由の方は分からずじまいであった。


「だから外でそういうこと言うのやめて下さいって言ってるじゃないですか!クロロさんの阿呆!助平!」

「それ、室内でならいいって意味に聞こえるけど」

「室内もダメ、絶対!!」


セクハラ要員として存在しているのではなかろうかという、数時間前の自分の疑念はあながち外れでもないのかもしれない、と思う。
ただひとつ今、ハルが明確に分かっている事は債務を返済し終えるまでパシリ、もとい忠実な犬としてこの心臓に悪い生活を続けなければならないということだけである。


(もう⋯職変えたい⋯⋯!)


ハルが転職の意思を新たにするのに御構い無しに。
東から昇りつつある陽射しを避けるが如くクロロは夜の暗闇を残す廃ビルへ歩き出し、その後ろをやはり半歩遅れてハルが追っていくのだった。


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