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「どうするかなあ」
ハルが居る廃ビルから西。100メートルばかり離れた別の廃ビルの中階層から、双眼鏡を片手に女が呟いた。その口調はいかにも大儀そうに、語尾がため息で掠れる。
女が覗く暗視スコープ付きのレンズの中には、赤いフィルターがかったハルとその周りの人間の姿があった。
双眼鏡を左手に持ち替えて、床に置いてあったパンを一口齧った。もごもご咀嚼しながら、また構え直して目の前にあてがう。
「どうにかハルだけ誘い出し、ん?」
再び覗いたレンズの中の光景は、女の想像していたものとは少し違っていた。女は眉をひそめる。
「ヘンだな。フィンクスの姿がみえない。ハルも様子が変だ⋯勘づかれたか」
そう言うや、次の女の行動は早かった。
双眼鏡とパンを足元に広げていた布の上に放り投げ、布ごと丸めて脇に抱えた。
今まで肘と顎を乗せていた窓枠に足をかけて、ぐいと身を乗り出す。地上までざっとみておよそ20メートル。彼女の身体能力をもってするとぎりぎり無事に着地できるくらいだ。
「体力仕事は苦手なのになあ」悪態を吐く。外に飛ぼうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。
「うわっ」
地面に身体が叩きつけられる激しい衝撃の後、ぱらぱらと砂礫が顔にかかって女は顔をしかめた。ビルが崩壊したというよりは、ビルそのものが一瞬にして消えた感覚を覚えた。
口に入った砂の固まりを齧り潰し、唾液ごと吐いて悪態をついた。
「⋯⋯いたた⋯やっぱ、偵察なんて来るんじゃなかった」
上体を起こして翡翠色の短髪をばさばさと払うと、砂粒がいくつも散らばり落ちた。
「受け身くらいは取れるみたいだな。逃げないのか?」
女の頭上からフィンクスの冷ややかな声が投げられる。
顔色を変えずに彼を見上げた女はけろりと答えた。
「ハルが挙動不審だったお陰でなんとかね。しばらく動けそうに無いけどさ、まあ私が死んで困るのは君たちだから殺されないとは踏んでるよ」
「あー、そうだな殺しはしねえが。口さえ聞ければあとはどうでもいいわけだ」
そう淡々と答えるフィンクスに、女は軽笑する。
「それ旅団ジョーク? 笑えないなあ」
女の態度にフィンクスは微かに反応を示し、その眉間が寄った。
その容姿とは裏腹に、女の発する言葉はまったく正反対のラフで無頓着なものだった。
そしてどこか緊張感に欠けている。フィンクスの威圧も意に介さずに女は遅れて合流してきたシャルナークとハルを見つけると、まるで親しい友人と会ったかのように手を振ってみせた。
「ねえあんた何者? 俺達に何の用?」
しゃがみ込んで女に目線を合わせる形でシャルナークが問いかける。
「君たち旅団には興味はないんだよ。今日はハルの記憶を返すつもりで来たんだ」
自分がこの騒動の犯人であるとあっさりと白状すると、女は膝下の砂ぼこりを払いのけつつよっこいせと無造作に立ち上がった。そんな女の動きをフィンクスとシャルナークは捕縛可能な距離を保ちながら見守る。
警戒態勢を崩さない二人に女は内心感心しつつどうにかこの場を切り抜ける方法を逡巡していた。
「なめんなよ。てめえの言葉をそのまま信用するほど抜けてねえよ」
「本当だって。こっちもそこまでヒマじゃ無いもの。だから、そうだな」
両手を上げて見せながら形ばかりの降参の態度をとる。
「今回のことは事故だったんだと思ってお互い手を打とうじゃないか」
笑顔を浮かべ、ぽん、と手のひらに拳を乗せるポーズをとった女。が、無視して二人は顔を見合わせる。女の見立て通り。この苦し紛れの和平案に乗ってやる寛大な人物は幻影旅団のメンバーには居なかった。
「とりあえず団長が帰ってくるまで縛っとく?」
「だな」
「⋯⋯⋯」
逃げられないと悟った瞬間、女の目の色が変わった。
「じゃあいい。勝手にやらせてもらうよ」
言うなり懐に手を入れる。反射的にシャルナークとフィンクスがその場から飛び退く。その場に取り残されたハルだけが女の手元をまじまじと眺めていた。
「え、ちょっ⋯⋯、ハル!」
「なに、これ」
女がくすりと笑う。ハルがそう言ったのもわからないでもない。
それは一見、玩具のような香水瓶だった。
その中には大小様々な歯車と、銀色の文字盤。いずれも部品達は精密でごく小さなものである。砂のような液体のような性状のそれはハルの目の前で明るく弾け、視界が瞬時に真っ白になった。
背後のシャルナークの慌てた声も、目眩がするような光量の中でよくわからなくなる。
「えい」
耳元で緊張感のない掛け声が聞こえた。後頭部を押されるような感覚のあと、頭の中でぼんやりと反響した女の声を聞く。
ちゃんと返しておいたから。
私はまだ死にたくないから逃げるよ。
不在の飼い主さんによろしく。