HIDE AND SEEKS #2




「ハル?」と呼ばれて、咄嗟に顔を上げた。


両目を見開いて動かないハルを、入り口に立つ男は不思議そうに見詰めている。


「なんだ、やっぱりハルじゃん。警戒して損した」


懐かしい。

何歳になっても幼く見える、けれども整った容姿、金色の髪は光を帯びるように、彼の透き通った碧眼は子供達がよく好奇心と羨望の目で見ていたのを覚えている。


自分は夢でも見ているのだろうか。これは、



「ウィル?⋯⋯」



うわ言のように呟く。ハルの言葉に、男の目はきょとんと見開かれることになった。

(⋯⋯ウィル、じゃない?)

夢ではない。しかし単なる白昼夢でもないだろう。砂だらけの床についた膝も十分痛い。そしてあの子がこんなところに居る筈も無い。かなり成長したように見える。いや、最後に彼を見てから何年も経っているように思える。外見が変わっていても不思議はないが。⋯最後に見たって何だろう?


(あれ⋯最後っていつだったっけ?)


頭がくらくらする。

一体自分の記憶はどれ程失われているのか。この瞬間になって初めて。ハルは現実がわからないことがおそろしいと思った。



「え?何だって? どうしたの、ハル」


男はもう一度ハルの名を口にして、こちらに迷いなく脚を踏み出してくる。


怪訝な面持ちでこちらを覗き込んだ男の蒼い双眸を、言葉を発するのも忘れて見つめる。やはり似ている、この男。



「何その顔。一段と間抜けに磨きがかかってるぞ⋯って、ハルなんか変?熱でも出した?それともまた何か変な物でも食べたの?」

と言った男の手が、ハルの額に当てられた。



突然の予期せぬ男の行動。

うひゃあと間抜けな悲鳴を上げて、ハルは派手にそこから飛びのいた。手を突いた先で砂埃が舞う。目の前の男もまた、ハルの取る行動に訳がわからないという風にそのままの格好で硬直している。


―――ここで余談だが、野生動物の生まれついての行動に、逃走本能というものがある。自らの身を守るための最終手段。
ハルが野生動物であるかどうかは別として、彼女はいま、あのクロロの言いつけを破ってでも、どうしてもこの場から離脱したかった。


「に⋯」


ハルが小さく声を漏らす。


「に?」


すかさず男が首を傾げて、彼女の言葉をそう繰り返す。



「⋯に⋯逃げますっ!!⋯」



言うが早いか、男の次の行動を許さぬスピードでハルはその場から離脱したのだった。


(許して下さいクロロさん!私は⋯ハルはもう耐えられないのです!)


思わず敬語を使ってしまったのは、彼に対する謝罪の念からか。
声にならない声をひり出し、何かを言いかけた男の横をすり抜けて廊下の先の闇へ向かって、ハルは目にも止まらぬ速さで一目散に逃げ去った。


「え、ちょ、⋯ハル?」


彼女が消えて行った穴の向こうの暗闇に向かって、最初に顔を合わせた時と同じ台詞を、ひとり取り残された男は懐疑を含んだ声色で復唱するのだった。









男は悪態をついていた。

それは、目の前の光景であったり、一寸の間であっても彼女から目を離した自分に対してであったり、彼がそうする理由は多岐に渡ってあったが、総じて彼の苛立ちはこの状況を創りだした彼女張本人に注がれていた。


「ガキかあいつは⋯!」


男がこれ程感情を露わにする事は、彼を知る人間からみるとそれはそれは驚くほど不自然なことである。
 良かれ悪かれ彼にこれほど感情の波を起こさせるのは、彼女しか居ないと言ってもいい。

兎に角、今、彼は非常に苛立っていた。


「⋯あ、団長なにやってるのこんな場所で。聞いてよハルのやつ。(S)シャルと(W)ウィル間違えたみたいでさぁ、合ってるの(L)語尾だけじゃん。若年性痴呆かな。⋯団長?」


部屋に一人で悪態を吐く黒髪の男を見つけるなりマシンガンの如く喋りだした青目の男に、クロロは神妙な、それでいて苦虫を噛み潰したような面持ちで告げた。


「シャル、なんと言ったらいいか。ハルが、あの女が厄介なことになった」

「ははっ、何を今更。もう大抵のことでは驚かないから。 で、今度は何をやらかしたの? 面白そうだからみんなに教えてやってもいい?」


青目は新しいおもちゃを手に入れた子供のような浮かれようで、彼の上着のポケットから黒い携帯電話を引き出す。

「シャルナーク、」
 青目とは正反対、可哀想なくらいの悲痛なテンションで重々しいクロロの声が彼を正式名称で呼んだ。


「その前にその携帯で、記憶喪失の治療法を調べてくれ。今すぐにだ」


ポケットから笑顔で携帯電話を取り出したまま、「嘘でしょ?」とシャルナークはそのままの笑顔で完全に停止した。









「⋯はあ、どこだろ?ここ」


あの男から逃げ出したい一心で部屋を飛び出し、突き当る壁々をことごとく右、たまに左へと進路を変えたりして、ハルが行き着いた先はやけにだだっ広い空間だった。天井が高い。ホールのようである。

ハルはそのホールを横切り、たまたま見えていた狭い一室へと足を踏み入れる。ドアは無い。壁に幾つもの金属管が走っていることから水を使うような場所、大方給湯室だった所だろうと推断する。


当然ここがどこであるかといった情報は全くの皆無だ。


簡潔に言ってしまえば、迷子である。



(もう⋯こんなの⋯むしろ人生の迷子のような⋯)



部屋を飛び出したのは、明らかに間違いであった。
今の時点ではクロロが居なくては、この世界では何も出来ない女なのである。ハルは。生まれ落ちたばかりの赤子、羽を毟り捨てられた鳥同然。何からも身を守れない。猛烈に脱力感がハルを襲って、ハルはその場にふらふらとしゃがみ込む。


「戻ろう、戻らなくちゃ」


そう呟いて、立ち上がるために太腿に力を入れようとすると、膝がかくんと折れて地面にぺしゃりと両手をついてしまった。
倒れこまなかっただけ、まだ上出来だろう。今のハルは昨日からつい先程までの精神的なダメージに加え、とどめと云わんばかりに肉体を駆使したことで今にも卒倒してもおかしく無い状態だった。


「もう⋯クロロさん、何処へ行っちゃったんですか⋯⋯」


すっかり力の抜けてしまった自分の両脚をふがいなく思いつつ、どうしようもないくらいの孤独感に襲われてハルは膝を抱えてその場にうずくまった。

これで自分が見つからなければどうなるのだろうか。


⋯クロロは自分を見捨てて去るのだろうか。
されば自分はもう為す術がない。そのままなにも解らず死んでゆくのだろうか。



しばらくそんな事をぼんやりと考えていた。



⋯ずり、ずっ




「⋯?」

何かが地面を擦る音が聞こえた。



ぱっと顔を上げて周辺を探るが、音を立てるようなそれらしきものは見当たらず、ハルは眉間に皺を寄せた。気味が悪い。

一瞬ぞっと身をこわばらせ、再度辺りを恐る恐る探る。何かが、何かがおかしくなっているのに気付く。


そしてよくよく眼を凝らすと、ハルの左右の壁が前へ前へと移動している。まさか、こんなことあるはずが無い。
次の瞬間、ハルがある答えに行き着くと、彼女の顔はこれ以上ない程青褪めることになった。「これって⋯」



「私、動いてる?」



ハルがその言葉を言い終わるか終らない内に、ハルの身体は一気に真後ろに飛んだ。ユフィが自ら飛んだというよりは、背中全体が強い力に引っ張られたような感覚。その後どさり、と背中に鈍い衝撃を感じた。

地面に落ちたにしては、やけに痛みが少ない。
それに冷静になってよく見れば、まだ足が地に着いていないではないか。ハルの体を支える、なにかクッションのような――。


ものが。




「やあ」




目の前に世にも奇妙なかたちのものが、右手を挙げてハルに挨拶を試みていた。


「⋯きっ、奇抜すぎるでしょおぉ!!」

思わずツっ込んでしまっていた。

相手の長い睫毛を確認できるほどの至近距離からハルが見たのは、良く言えばミステリアス。ハルの常識に則れば非常に異様な、フェイスペイントと貼り付けたような笑顔。
そこはまたしても知らぬ男、いや、知らぬピエロの腕の中だった。ピエロの知り合いなど居ない、現時点のハルにはだが。

今朝から引き続き、今日はなにやらやけに馴れ馴れしい男に巡り合う日だ。


「何を今さら。久しぶりに会っておいて、失礼なコトを言うね君は」


ハルをしっかと抱きとめたピエロだが、にこにこ笑う表情はそのままに、その手を難無くぱっと離す。無論、ハルの体は落下する。
腰からもろに地面に墜落して、潰された蛙の断末魔のような声を漏らす。

「痛ったあ!! 離すなら離すって言ってください!」

ピエロの背が無駄に高かったため、落下の衝撃も小さくは無い。もろに強打した腰を摩りながら、涙目のハルがピエロの男を見上げて非難の声を挙げる。ハルのそれを微塵も気に掛ける様子もないまま、男は自分の質問を投げて寄越した。
外見といい、この勝手気ままなスタンスといい、⋯この男、絶対B型だ。ハルは頭の中でそう確信めいたものを掴んだのだった。


「ところで君、ココでナニをしてたんだい」

「ナニって、」

「今日はクロロは居ないのかい?」

「⋯クロロさんはいません」

「?」

「私、待たされて。⋯クロロさんは何処かに、いなくなっちゃいました」

「へえ。カワイソウに」


無論、本当にそうは思っていない。顔でわかる。
だが、今はそんなものはどうでもよかった。他人でもいいから、誰かに傍にいてほしい。それにこの男は、クロロと自分のことを知っている。

今思えば先ほどの碧眼の男もそうだったのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。


「それにしても、君が一人で居るのは本当に珍しいな」

「珍しい? それって珍しいんですか? はあ⋯⋯ほんと、なんにもわからないって困る」


ユフィがそう言って沈黙すると、ピエロは少し驚いたように眉を上げ、一貫して変わらなかったそのにんまり顔に、初めて小さな変化をみせた。


「どういう意味?」

「えーっと⋯私、いま記憶が部分的に無いっていうか飛んじゃったっていうか⋯クロロさんのことも、自分のことも、よく解らなくて。」

「⋯へえ。じゃあ、ボクのことも解らない?」

「はあ、こんなこと言うのもなんですが一度見たら死ぬまで忘れない顔だと思いますが」

「それはそれは。残念だな」


クロロの許可があるまで話すなと言われていたが、この孤独感に耐えられなかった。少しでも話して、楽になりたいという。人間の心理である。


「でも、ボクにとっては好都合」

男の意味ありげな言葉に顔をあげると、男はまたあの笑みを浮かべながらハルの前に立っていた。



「いつもスキがあればちょっかいかけてみようって思ってたんだけど。その首輪の念が何だか解らないから、なかなか君に近づけなかったんだよね」


「⋯⋯はあ」


平然と、ものすごいことを言う。記憶が無いため今は実感が無いが、以前の自分やクロロが聞いたら、ひどく怒りそうだと他人事のように思った。


「来てくれる」


そう言って、男は瓦礫の一角に腰を下ろした。ちょいちょい、と足の間のスペースを指さしている所を見ると、そこにおさまれということか。

そんな物騒なことを言われた後なので一応警戒して尻込むと、「今はなにもしないから」と言って、ニッコリと笑った。
ハルが静かに指定された男の股の間にしゃがみ込むと、後ろから無造作に髪をめくられる。


「首輪?」

「うん」


短く答えた後、「そのまま」と言って、振り向いた首を強引に元に戻された。首筋に視線を感じて、小さく身震いをする。
しばらく沈黙が続いた。男が予想通りのマイペースっぷりを呈し、放置され続けてそろそろ居た堪れなくなったハルがそわそわしてきた頃に、男が漸く口を開いた。


「うーん。簡単な念符だけど、解除の条件にはなんらかの行為や動作が必要みたいだ」

「条件があるんですか?」

「そ。でもボクにはそれが解らない」

そう言うと、「もういいよ」と、あっさりハルを解放した。


「首輪の秘密も大体わかったし、ここに居てもしょうがない。ついておいで”仔猫ちゃん” クロロの所に連れて行ってあげる」


男はすっくと立ち上がって、ハルが入ってきた廊下の方向に歩いていく。


「うーん⋯」

「どうかしたかい?」

「どうして仔猫ちゃんなんだろうって」

「迷子の迷子の⋯」



(ああなるほど、そういうことか)


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