別に隠していたわけではない。
 それでも話さなかったのは、なんとなくだった。
 なんとなくバイトしたいと言い出せなかった。
 なんとなくバイトしたと、言い出せなかった。
 なんとなくお金が欲しいと言い出せなかった。
 だから言わなかった。
 それは悪いと思っている。
 保護者をかって出てくれた虎徹に何も言わず、履歴書を捏造してまで飲み屋でバイトを始めたのは、なんとなく悪い気がしていた。けれど、言ったらバイトしたい理由も言わなければいけない気がして、それもなんとなく言いたくなかった。
 いつまでも居候ではいられない。
 いつか出ていくためにお金を貯めておきたい。
 言わなければいけないのはわかっているし、言うべきなのもわかっていた。
 そして、言わなかったからこそこうなっていることも。



 春希がバイトを終えて家に帰ると、虎徹がひとりリビングで晩酌をしていた。
 お酒が好きな虎徹は家でもよく飲んでいる。ヒーローTVのダイジェストなんかを見ながら楽しく空き缶や空き瓶を増やしているのが常だ。
 けれど今日の虎徹は様子が違った。
 テレビもつけず、ただグラスを傾ける姿は普段と違う雰囲気を纏っていて、春希はリビングの入口で立ち止まった。
 どうしてか入るのが躊躇われた。
「あの、ただいま帰りました」
 恐る恐る声を掛けてみるが、虎徹は無言だった。振り返りもしない。聞こえないはずもなく、いつもは必ず言ってくれる「おかえり」が返ってこない。
「……おじさま?」
 虎徹を呼ぶ春希の声が微かに震える。どうして自分が立ち止まったのかが分かった。リビングに充満する空気がピリピリと肌を刺すものに感じたからだった。
 昔から春希は他人の負の感情には敏感だった。
 苛々しているとか。怒っているとか。嫉妬とか、悪意とか。そういうものをいち早く察して、身を隠すのが物心ついたときからの習慣だった。今では身を隠すまでいかないが、自分に対するマイナスなものに敏感なことには変わりない。
 喧嘩慣れしていない一般人やそこいらのチンピラ風情なら受け流すこともできるが、ヒーローともなると普通の人とは違う。なにせ凶悪犯にすら立ち向かっていく胆力の持ち主だ。それこそ野生の虎の入った檻にでも放り込まれたような気分になった。
「春希」
 春希を呼ぶ虎徹の声はひどく硬い。
 すぐさま何かよくないことだと悟った春希は、思わずじりっと後ずさる。それだけ虎徹の声が怖かった。
「こっちに来なさい」
「……はい」
 来いと言われれば行くしかない。
 逃げ出したい気持ちを押し込めて、重い足取りで虎徹へと近づく。ソファへ座るように促された。逡巡して春希は虎徹の座っているテレビ正面側のソファではなく、入口に背を向けるよう配置された方へと腰を下ろす。いつもなら虎徹の横でそこそこくっつくように座るが、今はなるべく近くに寄りたくなかった。
 居心地が悪く、尻の収まりも悪いまま、春希は虎徹の言葉を待つ。
 雰囲気と声から分かる。どう転ぼうがいい話ではない。一体なにを言われるのだろう。思いつくのは虎徹自身のことか、春希に出て行けということかくらいだ。もし虎徹自身のことならば、なんだろう。
 しばらく家を開ける?
 いや。それならば、ここまで重苦しい空気にはならない。
 まさか病気が見つかった、とでも言うだろうか。それならばわかるが、虎徹のことだからそういう自分の不調は隠しそうな気がする。
 虎徹自身のことはあまり思いつかなかった。
 だとしたら春希のことについてだ。
 出て行けと言われるのかもしれない。それも虎徹の性格からすればなさそうだが、例えば春希がいると都合が悪い事態になっているとか。それならば、ありうる。仮に家族と居候を天秤に掛ける事態なら、家族を取って当たり前だ。血の繋がった家族と行きずりの他人を同等に扱う方がおかしい。
 懐具合は心もとないが、出て行けと言われればすぐさま出ていこう。
 そう覚悟して虎徹の言葉を待つ。が、虎徹は黙ったまま春希を見ようともしない。手の中で手持ち無沙汰に捏ね回されるグラスの中は、ほとんど溶けた氷で薄まっている。
 これは水を向けた方がいいのだろうか。自ら火種に油を注ぐ行為な気もするが、このままではどうしようもない。
「あの――」
「春希」
 春希が声を掛けようと口を開いたのと、虎徹が春希を呼んだタイミングが重なる。
 すぐさま口を閉じて虎徹を見やった。膝に腕を乗せた格好で虎徹に下から見上げられて、背筋がぞわりと震える。
 普段はコミカルな印象が強いのに真面目な顔をしていると途端に悪人面になる。眼光も強いのでどうしたって緊張してしまうのだ。
 これが犯人なら緊張などしないが、相手が虎徹だというだけで緊張する。
 緊張でかいた手汗を誤魔化すように、両手を膝に乗せ、行儀良く続く言葉を待つ。
「お前、バイトやめろ」
「え?」
 投げられたのは予想していた言葉のどれでもなかった。
 一瞬どう対応していいか迷い、結局気の抜けた声を漏らすだけになった。代わりに頭の方は次第にぐるぐると回り始める。
 なんでバイトのことを知っているのだろう、とは思わない。
 バイトを始めて一ヶ月、虎徹が仕事のときを除いて夕飯を共にしていたのが、週に何度も夕方から夜にかけて外出しているのだ。何をやっているかなど、想像はついたのだろう。バイトをしていることに関しては、進んで喋らなかったとはいえ聞かれれば素直に答えたことだ。
 黙っていたことに対して何か言われるかもしれないとは考えたものの、何も聞かずにやめろと言われるとは思わなかった。
「いきなりバイト始めるなんて何考えてるんだ。欲しいもんがあるとか小遣いが足りないとかだったら言ってくれれば渡すし、そりゃああんま高いもんとかは買ってやれねーけどっ。だからってバーで働くとかおかしいだろうが。カリーナもバーで歌ってるけどあそこは治安もいいし歌手としてで酔っぱらいの相手もしなくていい。けど、お前のは違うだろ。わざわざあんな治安の悪い場所にあるバーのしかもホールスタッフ? 普段はあんまし肌出すの着ないくせにミニスカート履いて酔っ払いの男どもに媚売ってまでバイトする必要あんのかよ!」
「……なんで」
 震える唇でそれだけ吐き出すが精一杯だった。
 なんで虎徹が知っているのか。仕事でシュテルンビルト中を駆け回る虎徹だが、春希が働き出してからバイト先付近での事件は発生していない。したがってヒーローがあの辺に出向くこともない。元々虎徹の行動範囲からは外れている場所なので帰りに偶然、という可能性も低い。まったくゼロではないが、それでも制服のまま外に出ることはないので、春希がバイトでどんな格好をしているか知るはずがないのだ。
 知るはずがないのに、なんで知っているのか。どこでバレた。客の中に春希と虎徹の関係を知る人間がいたようにも思えない。少なくとも春希は知り合いを見たことはなかった。
 黙っていたことを怒られるのはわかる。
 だけど。だから。でも。
「大体、履歴書はどうした。まだ高校入ったばっかっていってただろ。ってことは十五か十六だろうが、サバ読んでまですることか? お前、履歴書も公文書だってわかってる? お前がやったのは公文書詐称だって理解してんのかよ。何かあったときどうしようもなくなんの分かってないだろ?!」
「わかってますわ!」
「わかってねーよ!」
 ガツン、と虎徹の拳がテーブルを叩いた。上に置かれたグラスが衝撃でズレる。
 それ以上に春希にとっても衝撃だった。
 口を挟むことができないくらいの勢いも、言われた内容そのものも。それ以上に虎徹がここまで声を荒らげることもだ。きつく睨みつけられて、春希はぐっと唇を噛んだ。そうでもしないと泣きそうだった。
「とにかく、バイトはやめろ。いいな」
「いやです」
「なんだって」
「いやです! なんで、一方的にやめろなんて言うんですの?! 私だって何も考えてないわけじゃ――」
 言い募った言葉を途中で遮ったのは、虎徹の腕に巻かれたPDAのビープ音だった。
 ヒーローであるワイルドタイガーを呼び出す音に、虎徹が数秒ほど躊躇った。多分、話が途中で中断されることに戸惑ったのだろう。けれどもヒーローという仕事に人生かけてる虎徹が、呼び出しを放っておくはずもなく。PDAと春希を一度交互に見て、虎徹はソファに投げていたハンチングを手にしてリビングを出ていった。
「こちら、ワイルドタイガー」
 呼び出しに応えた虎徹の声が、すぐにドアで遮断された。
 廊下を慌ただしく歩く音と玄関の開閉オンだけがドア越しに遠く聞こえた。
 虎徹が出掛けたのだとわかると、春希は細く体の底からため息を吐き出した。まさかバイトひとつでこんな言い合いになるとは思わなかった。冷えた指先を握りこんで、微かに震える指先を誤魔化して、春希はテーブルの上を片付け始めた。
 虎徹が帰ってきたら、もう少し冷静に話し合いが出来るようにと思いながら。



 その日、虎徹は帰ってこなかった。



20120513


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