あなたの存在が愛おしい
すきだとほざく男は、だいたいがあたしとのセックスがすきなだけだった。
「いやあ、このあいだは驚いたよ。いきなり、『あたし、ダッチワイフじゃないんで』て、そりゃそうだよ」
あーあ。いい感じに酔っぱらってたのに。
ほろよい気分だったあたしの顔は澄ました表情になった。
「じゃあなに?」
「ぼくは飯野さんのことすきだし」
「でも、付き合うのは違うんでしょ?」
「えっと、それは」
「誰だろーねー、ダッチワイフと思わせるようなことしてんのはー」
我ながらいやな女だと思う。今年にはいって、身体が「すき」と言ってきたやつは何人目だろう。
「それは」
落ち込んだ素振りをする男を横目に新しい酒をカウンターごしに頼む。
「墓穴、掘りましたね」
男の横から顔を覗かせ、色黒の男が笑みを向けていた。
「零さーん、こんばんはー」
彼は降谷零。このバーで知り合った男だ。持ち帰りをしなかった男だ。
「ぼくの友人を傷つけるなら許しませんよ」
不敵な笑みはイケメンで、まあそりゃあ簡単には落ちないよなあ、と当初から見ていた。臭いことを言っても様になっている。
「すきな女ならバレンタインデーのお返しするよねー? 物なくしたら忘れずにお詫びするよねー? それがなーんもなしだもん。笑っちゃうよ、ほんと」
いつもより少し大きな声で笑ってやると「そんな、忘れてなんて」と言われた。ついさっき頼んだお酒をグイッと飲み干す。
「あれからもう二ヶ月以上も経ってるのに? それまでに会えたのに? 今回だって、あたしからの誘いじゃん? 誘われたら乗るだけ? 自分からは動こうとしないの?」
追いうちをかけると眉を下げた男が悔しくなったのか出ていこうとする。待てよ、と肩をキツくつかんで止める。
「忘れたつもり、ないんでしょ? じゃ、これよろしく」
伝票を渡してあたしが先に店から出てやった。これぐらいいいだろう。なくされたのは母からもらったお気に入りのマフラーだったのだから。酔っぱらって「寒い寒い、貸して貸して」と言ってきたのでマフラーを貸し、彼の家まで送り、電車がないのでそこから一万円もかけてタクシーで帰ったのだ。彼は覚えてもいないかもしれないが。
店の前で息を長く吐く。やり返すことはよくないとわかってはいるが、頭にきていたのだ。
後ろからは彼ではなく、零さんがやってきてあたしの隣に並んだ。
「あんなもんでいいの」
「いーの。金で返せるんだからまだマシでしょ」
「けっこう飲んでたみたいだけどね」
「十杯飲んでやったよ。おごってもらうつもりはなかったけど」
「こわい女」
彼と笑いながら駅に向かう。夜遅くまで動いているのは都会のいいところだ。
「あまり、自分の価値を下げないように」
真剣な声に、こちらも真剣に応える。
「うん、そうだね」
「本当にそう思ってます?」
「思ってるって。それに、あのひととは半年前が最初で最後だし」
はじめて零さんと会ったとき、あたしはきょう行っていたバーで悪酔いしていた。さっきまで一緒に飲んでいた男に「すきだけど、付き合うつもりはない」と言われたことがきっかけだった。ヤってしまうと手に入れた気になってしまうのだなあ、と今までもなんとなくわかっていた男の真実が憎くてたまらなかった。女は心も手に入れたくてしようがなくなるのに。
「あれからは誰とも?」
「なーんもしてないよ、誰とも」
初対面にも関わらず、零さんはあたしの話を聞いてくれた。五歳上の彼は兄貴風を吹かせて説教をしてきたが、正論だったしまるであたしを思いやってくれてるような言い回しだったので軽い女でいることをやめたのだ。
まあ、最近の場合は仕事が忙しくてそれどころでなかったことも関係しているが。
会えるペースはだいたい月に一度ほど。相手も仕事が忙しいらしく、週末に必ず会えることが決まっているわけではない。
「すきなひとと付き合うまでは、やめておこうと思って」
今までのあたしだったら、酔った勢いで零さんと寝ていただろう。それをしないのは零さんの説教がきいたのと、彼をおそらくすきだからだ。
けれど彼があたしをすきな確証はないし、自分から告白する勇気もない。もしも両想いだとしたら男から告げてほしいと考えるのは女の性である。
「いま、いないんですか?」
「さあ、どうでしょう」
曖昧に返したことばは、すきという意味だときっと気づかれない。でもあわよくば勘のいいあなたに、気づいてくれればいいのにと願ってしまう。
「いるならデートに誘うべきですよ」
「本命には待ってしまうのが女なんですー」
ふて腐れたふりをする。こんなあたしに、ばかだと叱ってはくれないかな。
「まったく、女というものは面倒ですね」
「お互いさまでしょ。零さんこそ、いないの。すきな子」
「いますよ。がんばっているところ」
きっとそれは、あたしじゃない誰かなんだろう、そう思ってしまうのは日本人らしき心で。でもそれが実はあたしでした、なんていうのは妄想である。
「そうなんだ。じゃあ、あたしもがんばろうかな」
いままでに、彼からのデートのお誘いを受けたことはある。けれどそれはなにかのお返しとか、桜がきれいなのであした見に行きましょうとか、そんなものだった。どこかデートスポットに行くわけではない。それに不満があるのではなく、むしろ逆に心地がよくてあれからすきになってしまったのだ。気をつかって場を盛り上げたり、自分をつくったりしなくていいことの気楽さを知ってしまった。
「こたえて、くれるかな?」
「きっと、こたえてくれますよ」
「じゃあ、あたしとデートして?」
彼は薄い笑みを見せてからあたしより少し前を歩いた。その後ろをついて歩く。歩幅は合わせてくれるし、しんどくはなかった。
「どこ、いきたい? 魚、すきでしたっけ?」
振り返った彼の顔は街灯の逆光でよく見えなかった。でも、やさしい顔をしているのは間違いない。
「水族館でまったり」
「じゃあ、あした。十一時に駅で」
あした。時間を指定して一晩をともにすごさないのは彼なりのけじめなんだろう。あたしはうなずいてから、見えてきた改札に向かって歩を早めた。
改札を通り、零さんがあたしの乗る電車のホームまで送ってくれる。人気の少ないホームは、まるでふたりだけの世界のようだ。
「お気をつけて」
速度を落とす電車の音のなかをかき分けた声が、あたしに別れを告げる。
「おやすみ」
電車はさらに速度を落とす。
彼はあたしに一歩近づいた。
「おやすみなさい」
再度呟かれた声は耳元で響いた。大きな手であたしの髪をくしゃりと混ぜるように撫でた。
ああ、ほんとうにズルい。
名残惜しく、止まりかけた電車を横目で見る。
「あした、お待ちしてますから」
離れた彼の胸に頭を預ける。
「うん、よろしく」
そしてそっとからだごと離れる。電車に乗り込んで彼を見る。閉まった扉のガラスを通して見つめ合い、手を振る。小さく振り返してくれたものだから笑みが浮かんだのだが、はたして彼はわかっただろうか。
さっさと速度をあげた電車から、零さんの姿が見えなくなったのはほんの数秒後だった。