ねえ、羊さん
眠気と腰痛と腹痛に襲われながらなんとか週末の仕事を切り上げ、帰宅している最中だった。夕飯の支度をするのは面倒くさく、というよりは食べることさえも面倒で、帰り道にある喫茶店へと足を運ぶ。ついでに足休めもしたかったので、帰宅途中にこの喫茶店があることをありがたく思う。
「美咲さん、きてくれたんですね」
「こんばんは」
迎えてくれた店員、安室になんとか笑顔をつくってみせてやり、出口から一番近い窓際のソファー席に座った。そしてあたたかいココアを注文する。彼は「めずらしいですね」と言ってから奥に引っ込んでいってしまった。
これ飲んで、帰ったらさっさと風呂はいって寝よう。
冷や汗が背中を流れた。額にもじんわりと浮き上がってきたので、鞄からハンカチを取り出す。ゆっくりと息を吐いて痛みを回避しようとするが、そう簡単にはうまくいってくれない。ハンカチには汗で濡れた模様と一緒にファンデーションもうすくついた。
白いカップにはいったココアを持ってきた彼は、美咲の目の前に静かに置くと、出入り口に近づいてopenの文字を内側に向かせた。美咲は腕時計を確認して、すっかり夜の九時半を迎えたことを確かめた。
「もうそんな時間だったんですね。すみません」
声をかければ彼は美咲と目を合わせてほほ笑んだ。
「いえ。邪魔されたくなかったもので」
邪魔? その単語に対して美咲は不思議に思ったが、彼は気にせず奥にはいって戸締りをはじめた。
あるていどすんだのか、彼はエプロンを脱いで美咲の目の前に座った。肘をついて、彼女を見つめた。不思議そうに美咲が見つめ返してやると、彼は鼻で小さく笑った。
「あなたはなにも、わかっていませんね」
見下ろしたようなその目が、その顔が、美咲にとってはどうにも怖く感じた。どこか男らしく、あなたなどどうにでもできるんですよ、と言われているような気がしたのだ。
「なんの、ことですか」
問いかけてみれば、やはり彼は怪しく笑うだけで答えなど言わない。美咲は余計に不思議そうな顔をするだけで、けれどそれ以上話が進展することはなかった。
十時前にやっとのことでココアを飲み終えた彼女は、腰をあげて料金を支払った。チラリと彼は外を確認してから美咲と向き直った。
「体調、悪そうですね。お送りしましょうか」
「そんなに遠くないですし、大丈夫です」
美咲が扉を開けると、わずかに雨が降っていた。水溜りがないことから、まだ降ってきたばかりなのだろう。
安室は彼女の肩を持って、口を耳元に近づけた。
「お送り、しましょうか?」
彼女の肩が小さく震えた。キコリのようにゆっくりと、ぎこちなく首を回して安室の顔を見た。笑顔なのに、どこか獣のような、顔。
「け、こう、です!」
顔を赤くしてから鞄をしっかりと握り、全速力で彼女は走った。その後ろ姿を眺め、安室は心底楽しそうにこうつぶやく。
「逃がしませんよ、絶対に」