やさしさなんて知らなくてよかったころ

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「おはよう、ご飯はちゃんと食べたか?」


朝ご飯を食べて、少し微睡みながら外を眺めていれば、昨日の約束通り征十郎がやって来た。こくり、と肯定の意味を表しながら、まだ覚醒し切れていない瞳で征十郎を見返す。そうか、と呟いて私の頭を優しく撫でてくれる征十郎に、涙が溢れそうになった。


しばらく撫でられ続けていたが、話さなければならない事があったのを思い出し、征十郎の腕を引いてやめるように促した。素直にそれに従った征十郎は、そのまま私の顔を覗き込んだ。いきなり近くなった事に驚きつつも、征十郎としっかりと目を合わせる。これから伝える事を、きちんと私の言葉で伝えられるように。


震えそうになる手を必死で隠して、スケッチブックを手に取った。そこには予め書いて置いた私の字が並んでいた。静かに征十郎に手渡して、読むように伝えた。征十郎が字を追っている間、何度も心が揺らぎそうになった。今、征十郎が読んでいる文章は私が昨日必死に綴ったものだ。本当に望んでいる事を書いたつもりだった。


「これは、本当なのか?」


征十郎の声は少し震えていた。確かめるように言った言葉には、微かな拒絶の色が浮かんでいた。認めたくない、そんな思いが含まれていたように感じた。昨日決めたはずの心が、征十郎の言葉と瞳によって揺らぎそうになる。だけど、揺らいではいけない、これは私が出した決断であり、変わらなくてはいけない私へのけじめでもあるのだ。


「本当に、行くのか。」


こくりと肯定を表す私に、征十郎の眉間の皺が寄ったのが分かった。私にとって征十郎は世界の全てだった。それはきっと一生変わらない。だけど、それではいけないと分かっていた。私の世界はきっと狭いのだ。自分の殻に閉じこもるようにして生きてきた私は、云うならば、井の中の蛙だったのだ。最初はそんな世界でもいいと思っていた。征十郎さえ居てくれれば、私は何でも良かったのだ。けれど、昨日の来客によって、それではいけないと知った。いや、本当は知っていた。昨日の出来事はきっかけにすぎなかった。私が私で在る為に、私を認められるように、私は征十郎の側から離れる事を選んだのだ。


「ずっと、ずっと、会いたかった。もっと早くに、無理矢理にでも引き離すべき、だったわっ、」


昨日の来訪者は死んでしまった父方の祖母と祖父だった。父親が死んでしまってから壊れてしまった母。そんな母を心配し、一緒に暮らす事まで提案していてくれた人たち。だが母は決して頷きはしなかった。一人で、私を育てるのだと、誰の手も借りずに二人で生きていくのだと言っていたらしい。今思えば、母親は私を取られまいと必死だったのかもしれない。最愛の人の忘れ形見でもある私を、手離したくはなかったのではないか。


祖母は母親がおかしくなっていく様子に気付いていた。そして、私の現場も少しずつおかしいと思うようになったらしい。家に何度も訪れてくれていた。だが、母親がそれを拒んだ。公共機関にも連絡し、私を助けてくれるよう訴えてくれたらしい。私の病院が分かったのも、連絡を取り合っていたからであろう。


祖母は、私の人生をやり直すために、家に来ないかと言った。祖母たちの家は北国の北海道であった。自然が豊かなその土地で、一緒に暮らそうと言われた。ふと、征十郎の顔が浮かんだ。離れたくないと、思った。けれど、このままここに居ても、私は狭い世界で征十郎に依存していくだけだ。私は私の目で世界を見て、そして征十郎に私の言葉で好きだと伝えたい。広い世界に居ても、私の居場所は征十郎の隣なのだと伝えたかった。


「征十郎、私行ってくるよ。それで絶対、征十郎の所に戻ってくるよ。」
「ちゃんと私の事を見つめ直して、征十郎の隣で笑えるように、私行ってくるよ。」


スケッチブックにさらさらと文字を綴っていけば、征十郎は私の事を引き寄せて、そのまま腕の中に閉じ込めた。耳元で小さく呟かれたその言葉に、腕を背中に回す事で約束すると誓った。私の居場所はずっと征十郎の隣なのだ。もしかしたら、私が征十郎の隣に戻ってきても、其処には違う誰かが居るかもしれない。けれど、征十郎が力一杯私を抱き締めてくれるから、弱々しくも吐き出された言葉があるから、私は征十郎を信じていられる。そしてきっと、征十郎も私の事を信じてくれる。だから、私は、征十郎の香りを、感触を、声を、全てを焼き付けて、目を閉じればそこに征十郎が居るように、必死になって記憶に彼を閉じ込めた。





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