やさしさなんて知らなくてよかったころ

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Why | ナノ



征十郎から離れてスケッチブックを手にした。何から話せばいいのか分からなかった。征十郎と距離が開くようになってしまってから、私には色んな出来事が起こった。それは私に幸せな記憶なんて齎すものではなくて、地獄の日々の始まりだった。あの日、母親が私を否定したあの日から、私の刻は止まってしまった。何一つ、映さず、絶望しか映さなくなった私。今でも、ここに征十郎が居る事が信じられずにいる。これは私が見ているただの夢であって、目を覚ませばまたあの日々が始まるのではないかと思うのだ。

それでも、征十郎が震える私の掌を優しく握ってくれるから、温もりを感じる事が出来るから、これは夢ではなく現実なのではないかと思うのだ。私を彼処から救ってくれたのは間違いなく征十郎であって、私も本当はそれを望んでいた。いつか、もしかしたら、淡い希望を私は征十郎に託していたのだ。

少しずつ、少しずつこれまであった事を綴っていく。途中で止まっても、征十郎は優しく手を握ってくれるだけで、催促するような事はしない。それが嬉しかった。私を気遣ってくれているのが分かった。征十郎に優しくされていると実感できた。羨ましかったあの場所に、今は私が居るという事に、この上ない幸福感を感じた。そして、全てを征十郎に伝えた。とても公にできないことまでも、征十郎には綴る事ができた。けれど、どうしても私が汚れてしまった事は最後まで字で表す事はできなかった。



「名前、」



私はそれまで征十郎が握ってくれていた手を振り払った。汚いと思ったでしょう、触りたくないと思ったでしょう、もう、関わることなどしたくないと思ったでしょう。それまで落ち着いていたのに、吐き出してしまった私は自分でも分かる程、狼狽えていた。言わなければ良かった。黙っておけば良かった。そうすれば征十郎は私の側に居続けてくれたかもしれないのに。



「名前」



もう一度、征十郎が私の名前を呼んだ。その声は私が予想してたものとは違っていた。嫌悪すると思ったのだ。汚れてしまった私の事を、征十郎は嫌悪すると思ったのだ。けれど、私の名前を呼ぶその声にはその感情が含まれていなかった。私が幼い頃から聞いていた、大好きな征十郎の声だった。



「僕が名前を嫌いになるなんて、ありはしないんだ。」
「  、 」
「好きだよ、好きなんだ名前」



征十郎が優しく私に伝えるから、私は自然と涙が溢れた。頬を伝う涙を征十郎が拭ってくれた。幸せだと思った。汚れてしまった私を受け入れてくれた、嫌いにならないでくれた。私にとって征十郎は全てだった。何でもできて、かっこ良くて、優しくて、私にとっての世界は征十郎だった。



あの後ひとしきり泣いて、私が落ち着くまで、征十郎はずっと側に居てくれた。それがまた嬉しくて、涙が余計に溢れてしまった。夕陽が沈み、辺りが暗くなってきた頃、征十郎はまた明日も来ると言って、帰っていった。今さよならをしたばかりなのに、私はすぐ征十郎に逢いたくなった。一人で居るのが怖かった。暗くなり始めた窓の外を見ていると、何やらドアの外から人の足音が聞こえた。それは足早に私の病室まで近づくと、其処でぷつりと途絶えた。速まる心臓を掴んで、私はドアが開く音を聞いた。





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