やさしさなんて知らなくてよかったころ

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彼の名前を呼ぶ事が出来るのは私だけだと思っていた。彼は誰かの上に立つ事はあっても、誰かの下に立つ事はない。そんな彼の名前を呼び捨てで呼ぶ事ができるのは私だけだと思っていた。幼馴染みという立場にいる私だけ。けれどそれは私のただの思い上がりだった。



「征十郎!これこの前言ってた資料!」
「ああ、ありがとう。助かったよ。」
「別にどうって事ないわ。だって私は帝光バスケ部のマネージャーだもの!」



彼女は列記とした帝光バスケ部のマネージャーである。帰宅部の私がどうこう言う資格なんてない。だから私がこの会話に嫌悪を抱く事もおこがましい。本来なら気にしない会話であるはずなのに、私はずっとぐるぐる漂う黒い感情に押しつぶされそうになる。その名前を呼んでいいのは私だけだったはずなのに。どうして彼女にも呼ばせるのか。どうして彼女にそんな優しく笑い掛けるのか。本当は理由なんてとっくに知ってる。けれどそれを認めてしまえば私はきっとこの世界に居られなくなる。それぐらい破壊力を持った真実。



「今日からこれを元にして練習試合を組もうか。」
「なら、私も手伝うよ。ちゃんと偵察まで行ってデータ取ってきたんだから!」
「分かった、じゃあ放課後にやろうか。」
「りょーかい!!!」



ああどろどろする。黒い感情が私の中を漂っている。こんな感情なんて要らないのに、私が持つ資格なんてないのに。なんで消えてくれないんだろう。どうして生まれてくるばかりなんだろう。こんな汚い私、要らない。


放課後、彼等は教室で話し合いをしていた。いつもなら誰も居ないこの教室で、下校時刻まで居る私だが、今日はそうもいかない。真っ赤な髪をした彼と楽しそうに笑う彼女。肩に触れる手。全部全部、私のものだったのに。私の場所だったのに。どうして今私はただその様子を見る事しかできないのだろう。私にはあの空気に触れる事すらできない。彼の近くに行くすらできない。それは許されない事で、かつて私が望んだ事だ。だから私はここから動いてはいけない。彼等の聖域に足を踏み入れてはいけない。私はただの傍観者だ。この世界での傍観者なのだ。



「じゃあこれでいこう。」
「分かった。私はこれを監督に渡しに行くから。」
「そうか、頼む。」
「いいえー!じゃあまたあとでね、征十郎。」
「ああ」



咄嗟に壁側隠れた。きっと気づかれやしない。私は彼等にとって空気に等しい。彼女とはクラスメイトという関係だけど、話した事はない。彼女は明るくて、誰とでも分け隔てなく関わる。そして愛嬌のある笑顔でみんなを虜にする。そんな素敵な彼女に対して、嫌悪感を抱いているのはきっと私だけ。心が捻くれた私だけ。


足音が聞こえなくなってから、ようやく息を吐き出した。無意識の内に止めていた息を、肺に一杯に吸い込んで、その場でしゃがみ込んだ。まだぐるぐる回る世界で、私は静かに口を開く。真っ赤な彼の名前を呼んでみても、それはただの空気が通る音に変わるだけ。もう、私は彼の名前を呼びたくても呼べない。空気が振動するだけで、それは音にはならない。愛しい彼の名前はもう、呼べない。頬を濡らす涙には気付かないふりをした。





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