陽炎の君 | ナノ
海底に沈んだ泥の中
「おっかえりー」
「…ただいま」
僅かに聞こえた足音と、チャリ、と鳴った鍵の音に先回りしてドアを開ける。少し驚いた様子の征十郎君にビンゴ、と内心呟いてドアから手を離した。
「良く分かったね」
「おー、勘みたいなもんだけどな。ご飯出来てるぞー」
「勘って…随分無用心じゃないかい?」
「大丈夫大丈夫、征十郎君の足音くらい分かるから」
ご丁寧に靴を揃えてからリビングに来た征十郎君が不審がるように眉を寄せてきたけど、俺がけらけらと笑って見せれば軽く目を見開いて沈黙してしまった。何か変なことを言ったかと首を傾げるも「着替えてくる」とだけ言い残して部屋に入ってしまったので、まあ色々と難しい年頃だからなということで結論付ける。ご飯冷める前に食べられるかね。
「…………」
ばさりとシャツを脱ぎ捨てて部屋着に袖を通す。先程の紗雪の発言を脳内で繰り返し再生しながら、誰にでもああなのか僕に対しての警戒心だけ解いているのかを考えた。…きっと前者だろう。
紗雪は人当たりがいい。そして、そんな人間の多くに当て嵌まる性格の持ち主と言える。
(簡単に心の内を晒したりはしないか)
つまるところ、その飄々とした態度は最大の自己防衛ということだ。
「征十郎くーん、湯豆腐冷めるよ」
「ああ、今行く」
幼い頃見ていたその笑顔は人を突き放すような類のものだったのだろうか。一緒に暮らし始めて二週間、見えてくる情報はそれほど多くはない。
「今日弁当作れなかったからなー。お詫びっつったらアレだけど、ちょっと豪華にしてみた!」
「気にしなくてもいいのに」
「まーまー、ほら、俺昨日世話になったしな」
「?…ああ。可愛い寝顔だったね」
「その言葉は俺の心に多大なるダメージを食らわすから止めてください」
少なくとも、認めざるを得ないほど期待していた僕を落胆させるような人間ではない。その事実に確かに救われながら、静かに箸を持った。
← →