小説 | ナノ





帝光時代






鼻先を掠めていった風に自然と頬が緩む。連日続いた暑さはあっという間に身を潜めて、漂う空気はもうすっかり秋らしくなっていた。

(いい匂い)

昼夜の温度差が大きかったせいで体調を崩し三日ほど寝込んでいたのだけれど、その間に小さな花は開いてしまったらしい。毎年楽しみにしている香りが漂ってくるのは気分がいい半分物悲しさ半分といった所だろうか。あっと言う間に冬になってしまう曖昧な季節を表すかのように、その花の香りが漂うのはつかの間だ。いつの間にか消え去ってしまう。

「ここにいたのか、なまえ」

芝生を踏む音が近付いてきて、ふわりと羽織を乗せられた肩に触れる。浴衣の裾を払って立ち上がれば、少し眉を寄せた征十郎の顔が見えた。

「病み上がりなんだから薄着で出歩くな。また振り返したいのかい?」
「ん、ごめん。少しだけだからいいかと思って」
「まったく」

思ったより冷えていたらしい手を握られて、温めるように軽く擦られる。ひんやりと頬を撫でていく風と香りに胸を締め付けられた気分になって、思わず息を詰めてしまった。

「これを見てたのか」

征十郎の手がその分厚い葉に触れる。僅かに揺れた枝からまた香りが流れていって、堪能するように吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出した。

「うん。好きなんだ、この匂い」

一心に見つめたその花の色は、昼間ほどよく見えるわけではない。それよりも征十郎の視線がくすぐったくて、その赤に視線を移せばわざとらしく逸らされてしまった。

「?」
「…知ってるさ。毎年この木に張り付いてるだろう」
「あれ、バレてた?」
「僕の部屋からよく見える」





窓から下を見れば、暗闇の中に赤が見えたような気がして目を凝らす。庭に咲いた金木犀の前に座り込んでいるなまえを見つけた瞬間、苦い気持ちが胸いっぱいに広がった。熱が下がったのは昼間の話だ。夜に体調を崩しやすいことくらい分かっているだろうに、どうにもなまえはそこに自分を当て嵌めようとしない。
羽織を掴んで歩き出しながら、そう言えば去年もああして金木犀の前に座り込むなまえを見たことを思い出した。確か去年も同じことを思った筈だ。その前も、そのまた前も。

「………」

意識はしていなかった。だからこそ深く記憶していなかった毎年のそれを、今も鮮明に思い出すことが出来る。窓を開けて草履に足を引っ掛けながら、無意識に見ていたらしい過去の姿と金木犀の香りが強く脳を揺さぶった。

そんなにも惹かれていたのか。

振り返ったなまえの笑顔はいつも心拍を乱していく。過去の自分の行動に頭が痛くなるのを感じながらも、それを表に出さないように努めていればなまえの視線がゆっくりと僕を捉えた。何時もより白いその顔色から僕の部屋へと視線を移せば、なまえが肩を揺らして笑う。

「ふふ、」
「…?なんだい」
「嘘、知ってる。征十郎、わざわざ柵に座って俺のこと見てたよね」
「…背中に目でもついてるのかな」
「何時もそうしてるのかと思ってたけど。俺が部屋に行くと大抵机に向かってるし、違うなぁって」
「………」
「まあ、今気付いたんだけどね」

自分の無意識下の行動を指摘されると言うのは、中々に恥ずかしい。口が曲がるのを抑えられないままなまえを見れば照れ臭そうにはにかんでいて、余計に羞恥心を煽られた。

「征十郎は、結構分かりやすいね」

手を引かれて屋内に戻る。脱ぎ捨てられた草履を揃えていれば先程よりも強く香った甘い匂いに首を傾げた。なまえを見れば、いつの間に手折ったのか金木犀が一枝揺れている。

「金木犀の花言葉知ってる?」
「…謙虚、だったか」
「流石よく知ってるなぁ。でも残念、それじゃない」
「へえ?」
「これ、征十郎にあげる」
「?ああ」
「大事にしてね」

すんと鼻を鳴らしてその香りを堪能したらしいなまえから枝を受け取る。花瓶を持ってこなければと思いながら頭を撫でてやれば少し熱い気がして、強制的に布団に押し込んで寝かし付けてから自室に戻った。





ぼんやりと光る画面には検索結果が記されている。金木犀の花言葉。謙虚、謙遜。前に誰かから聞いたそれに間違いはない。その下にも続く言葉によくもまあ幾つも思い付くものだと笑ってしまったが、噛み締めていくうちにどうにも胸が痛んだ。息苦しさを覚えて深く息を吸えば、入ってくるのは金木犀の香りだけ。

「…参ったな」

頬に感じた熱を振り払うように袖に顔を押し付けても、その香りからは逃れられない。すっかり匂いの移った浴衣を睨んで、それからそっと口付けた。




真実の愛情、それから初恋


(大事にしてね)

今でも最大限大事にしているというのに、これ以上どうしてあげようか





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