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あい芽吹くオレンジ

「スリー、ツー、ワン、」

密集した人々の熱気とざわめきに満ちた居酒屋の、ある座敷の一角で、杏寿郎はひとり立っていた。短針が9の上のふちに差しかかるぐらいの時刻。大皿いっぱいに乗っていた焼き鳥は残り二串となり、各々一回はドリンクをおかわりした、そんな頃合いだ。
表裏に仕掛けがないことを確認した白いスカーフを左こぶしに被せ、逆の手でそこに粉をかけるような仕草をする。そうして視線がそちらにいっている間にスカーフの下に生んだオレンジ色の花を、おきまりのスリーカウントの後に近づけた右の親指と人差し指で摘んでみせた。さも何も無いところから取り出しましたよ、どうですかと言わんばかりだが、観客である教師陣は拍手しつつもけして驚くことはなく、特に宇髄はもはや畳に付けた手のひらで上半身を支えるだらしない姿勢でこっちを見ているものだから、思わず苦笑いが出てしまう。皆もう見慣れている、だからやりたくなかったのに。

キメツ学園は担当教科を超えてのつながりが深く、季節事にこうしてよく飲み会があった。今回は無事に夏休みを迎えられた慰労会と銘打たれている。幹部や余興もちゃんとあるが形だけ、二次会もない、その参加へのハードルの低さが学園のいい雰囲気を示していて、でもだからこそ多くが積極的につきあう。杏寿郎はこの職場が好きだった。ただ、いくら出来が大事でないしても、何の役割も担うことなく気安く飲めるならそれが一番。特に、節目としてひとつの学期を終えた時期に開かれるこの会は、春に着任されたもしくは新規採用の先生を労る目的も兼ねているためか何気に参加率が高く、それだけに杏寿郎は余興の担当が回ってきた時つい嫌な顔をしてしまった。
杏寿郎の出し物はいつも固定だ。マジック。通販で税込1100円の二本の造花に、袖に仕込む五輪組の袖花が3520円。5000円以内に収まり何度でも使えるこの簡易マジックが杏寿郎の十八番だった。トランプだとか、コインマジックを披露することもあったが、結局それなりに大きな動きで華やかに見えるこのマジックがいちばん多く場に出ている。しかし、マジックは新鮮な驚きがないと楽しめないのは当たり前で、それを考えると、杏寿郎の魔法はもはや出涸らしに近いネタになってしまっていた。
いくばくかのやりにくさを案じるが、一度始めたのなら終わらせなければならない。次の動きも、オチすらも全員が知っていたとしてもだ。そう思い目を伏せたところで、耳をやわい歓声が打った。うっかり溢れ出てしまった、きっと届ける気のなかった「すごい」。

「どうぞ」

隣で拍手を起こす手に、渡りに船と杏寿郎は一輪花をそっと差しだす。社会科の教師二年目の名字名前だった。反射的にそれを受け取った名前がタネを暴こうとして造花を一度くるりと回し、顔を傾けてがくを検分している姿を微笑ましく思った。15センチほどの花は杏寿郎には小さかったが、名前の手に渡ると馴染むサイズに見える。彼女が来てから、自分が余興側に回ったのは初めてだったか。向かいの宇髄が救われたなァという気持ちを込めて片眉を上げて笑ったのが分かった。
続けて作りものの花弁を指先で撫でていた名前はぱちんときれいに響いた指鳴らしにはっと顔を上げたが、その時にはすでに杏寿郎の手には新しく青い花が咲いていた。その青はテーブルに置かれる。そして終わったとみせかけて、ジャケットの袖に仕込んだ花束を出して終幕だ。赤、ピンク、黄色、青、オレンジ。きつめのビビットカラーは、教師にとって見慣れた幕引きでもきちんと目を引いてくれたようで、響く拍手と酔っ払いからのいくらかの声掛けに杏寿郎はほっとして頭を下げた。ギリギリ及第点だろう。そそくさと座布団に腰をおろす。

「タネとか知らねェけど、もはや興味も出ねぇの不思議だよな」
「お粗末!」
「いやスベリ一歩手前。もう絞り出しすぎてなんっも残ってねェ」
「はは!」

隠さない宇髄の言葉に杏寿郎はすまない!と頭をかいてはにかんだ。この為だけに持ってきた上着を脱いで、汗が滲みだす背中に慌ててシャツの袖も捲る。花たちをジャケットと共に鞄に仕舞うと、左に座す後輩が頼んでいたハイボールとおしぼりを回してくれた。ネクタイをぐっと背中側に回す。
そこでそうだ、と杏寿郎は逆隣の名前に顔を向けた。

「名字先生、助かりました!」
「いえ!本当にすごかったんです」

茶化して杏寿郎が敬語で話しかけると、名前は首をぶんぶんと横に振った。その酔いが回りそうな動きに覚える若さと、うっかりそう感じてしまったことへのさみしさを誤魔化すようにジョッキを煽る。音を鳴らしながら喉奥に炭酸を通していると、ふと、名前が回収し忘れた造花を抱きしめるように持っていることに気がついた。すまないと受け取ろうとすると、それをちょうど遮るかたちで口を開く。

「煉獄先生は、マジックはいつからやられているんですか?」

こちらを見上げる名前の頬は赤く、横目で見たテーブルには3分の1に減った梅酒のグラスが乗っかっている。アルコールに強くはないと知っているが、その火照りからは酒のせいだけではない気の昂りを感じた。そんなに楽しんでくれたのだろうか。その表情は投げられた質問とともに、杏寿郎のある記憶を波立たせる。

「飲みの席で、というなら俺が初めて余興を担当したときからだから...3、4年前だな!マジック自体は、初めて触れたのは小学生のころだろうか」
「やっぱり!余興のために練習したんじゃないんですね」
「あぁ。今は百均なんかでもマジックのセットが買えるだろう。年の離れた弟がいてな、見せるために始めたんだ」

そう、たしか千寿郎がまだ二歳ぐらいの時だ。感情の制御がまだ下手で、当時の千寿郎はよく泣いた。それに人見知りでそのくせ寂しがりなところもあって、あまり外遊びを好む子供でもなかった。学校から帰宅した杏寿郎がすぐに外に駆け出していこうとするのを心のままに泣いて嫌がり、時にはいじらしく半ズボンの裾を握りしめ引き止めてもきたものだ。自分によく懐くかわいい弟をなんとしても喜ばせてやりたいという義務感に突き動かされ、小遣いを握りしめて近所の百均に足を踏み入れたのがきっかけ。
百均にはボールや砂や水遊びの道具も売っていたが、それでは千寿郎は喜ばないのは分かっている。トランプは、まだルールを理解するには早いだろうか。おはじき、ビー玉は家にあるし、シャボン玉は少しでも逆流の可能性があると思うと自然に選択肢から除外された。頭を悩ませ玩具コーナーをいったりきたりしていた杏寿郎は、ふと上の方に釣られた小さな箱たちをみつける。台に乗りあげ手を伸ばすと、カードの柄が変わる、コインが瞬間移動する、銀のわっかがすりぬける、フォークが折れ曲がるなどとそれぞれ書かれていた。それがマジックとの出会い。
これだ、と直感で思った。
幼い千寿郎でもひと目で理解できるもの。自分に読める漢字とひらがなをピックアップしながらなんとか導いた内容を元に、とりあえず2つの箱を選び抜いた。コインが瞬間移動するものと、フォークが曲がるもの。バイトの大学生の男が気だるそうにレジに通すのを見上げながら、杏寿郎は自信に満ちた顔つきで五百円玉をカルトンに出し、返ってきたお釣りを雑にポケットに突っ込むとビニール袋をがさがさ鳴らして家までの道を駆けた。

「あまり器用ではなかったから、練習して見せられるレベルになるまでけっこう時間がかかったけどな」
「で、肝心な弟の反応はどうだったんだよ」

いつの間にか宇髄も、後輩もこちらを見ていた。杏寿郎のマジックが、そんなに長く深く人生に繋がっているとは思っていなかったらしい。宇髄の問いかけに、杏寿郎はもう一度名前の顔を見た。

「?」

当然きょとんと見つめ返される。頬の赤みは引いていたが、杏寿郎が眺めるうちにまた耳のふちからじわじわと染まっていった。あの、と小さく唇が動き、もとから水分の多いひとみが潤む。かわいいと素直に思った。ふ、と笑って視線を外す。

「千寿郎は喜んでくれたさ。毎日せがまれて、休日には何回もやらされたな!」

ジョッキ片手に肩を竦めると、少しの間を空けて、串ごと口に入れた焼き鳥から器用に身だけを噛みぬいた宇髄に、いいおにーちゃんだねぇともごもご呟かれる。

「それでネタも増やしてったと」
「...いや。次にマジックの練習をしたのは実は数年後なんだ!後から知ったんだがああいうのは対象年齢が15歳以上でな。それを思うと、新しく買うのも気が咎められた」

ちゃちなプラスチックでできた道具は何度もネタを披露するたびに擦れ、いつしかマジックの肝となる部分が機能しなくなった。それで百均の寿命は終わり。それからまた小遣いを貯め、マジック用のトランプを買えたのは中学生の時だ。その頃には千寿郎の引っ込み思案もかなり落ち着いていたが、それでもなんとなく時間をみつけて続けていた。披露すると変わらずすごいすごいと手を叩いてくれるのがくすぐったかったのだ。社会人になり余興のネタにマジックを選んだのは、初めてマジックを見せたときに千寿郎がしたような、瞳に星がうつるようにきらめく笑顔がもう一度見たかったから。そう、さっきの名前のような。

「名字先生、どうして俺がマジックを始めたのが昔だと分かったんだ?」
「...!」

尋ねながら杏寿郎は、テーブルの下に置かれた名前の手を覆うようにそっと自分のそれを重ねた。背後は壁であるので、おそらく誰にも気づかれない。顔にさえ出さなければ。

「......あの、なんだかすごく様になっていて、慣れてるように見えたので」
「ふむ、そうか...そう言われると嬉しいものだな、ありがとう!」
「...せんせい、酔ってますか?」
「ん?余興があったからな、そんなに飲んでないぞ」

そうして顔を正面に戻してからちいさく、舌で転がすように名前を呼ぶと、薄い肩がぴくりと跳ねる。こちらを恨めしそうに見上げているのが分かったけれど、素知らぬ顔をして中身を吸った枝豆の莢をぽいと皿の上に投げた。マジックには、ポーカーフェイスが必要なのだ。全て知っている宇髄だけが、はぁ、とため息をついた。


***


「ばか、お前ほんとばか、脳内お花畑。ちったァ自制しろ」
「手厳しいな!」
「だいたい隠すつもりある?ん?見つめあってよ、おてて繋いじゃってまぁ」
「俺にはない!ただ、2年は待てと言われたから」

夏のはじまりの夜は、どこか湿気ていて肌にまとわりつくように重い。実は今回の幹事(といっても店は以前と同じだった。飲み会というより、教師間の酒の入った交流会と呼んだ方がいっそ相応しい)であった宇髄を待って店を出ると、二次会の流れは例年通り生じていないようで、よしきた、と呟いた宇髄が解散を促すと、お疲れ様と声が飛び交い集団のふちから崩れていく。上の立場の教師の輪に混ざっていく宇髄は身長から圧もあり、ずばりと物も言えることからまとめ役によく向いていた。
きょろ、と杏寿郎が辺りを見渡すと、お目当ての人物は胡蝶カナエと話している。この位置からは楽しそうににこにこと笑う胡蝶しか見えないが、きっとまた遊ばれているのだろう。声をかけようとしたが、それより早く胡蝶が手を振ってきた。

「煉獄先生!名前先生のこと送ってあげてくださいな」
「あぁ!もちろん...だが先生は?迎えですか」
「そうなの、うふふ、しのぶちゃんが来てくれるって!だから名前先生のことだけお願いします」

その返しによもや、と動く口を抑える。たしか彼女の妹はまだ高等部三年だったはずなのだが、とっさに聞かなかったことにした。一応ここは居酒屋の並ぶ道で、夜も深くなる時間帯でもあるから教師としてはひとこと言わねばならなかったけれど、へたに首を突っ込むといい事にはならない気がしたのだ。胡蝶が再びうふふと軽く笑む。正解らしい。キメツ教師には責任感の強い男が多いから、例えば遠くからこちらを見ている冨岡だとか、そういうのに任せることにする。その間も胡蝶に背中を押されている名前とふたりで全員に頭を下げてから踵をかえした。

「...煉獄さん、びっくりしました、その」

おたがいの家を知っているから、特に何も確認することなく駅にむけて進む。知り合いがいないだろう辺りまでくると、名前が俯きがちに呟いた。それなりに酔いもあるのかふらつく足元に、腰を支えた杏寿郎が耳元でささやく。

「嫌じゃなかっただろう」
「〜〜、」
「ふふ」

楽しそうな笑みに、名前は出た!と言いたくなった。こういうところ!と。兄気質で優しい杏寿郎に、ときどき所有物に対するような口ぶりで話されると、胸の奥がきゅっと締め付けられる感じがするのだ。最近はこれが名前の悩みで、もしかしてMなのかななんて考えてしまう。ずるい。そんな葛藤も知らずに、杏寿郎は再び、今度は指を絡めて体を引いてきた。

去年の春、名前は地理教師の新規採用でキメツ学園に配属された。高等部の社会科は慢性的な人不足で、差し込む柔らかい陽にほこりがちらちら浮かぶ準備室で対面した教師は歴史担当の杏寿郎と後輩教師、公民担当の悲鳴嶼先生、それから地理担当の非常勤教師の四名だけ。さらに名前と入れ替わるように、唯一いた女性教師が離任していた。というより、その女性教師の代わりが名前だったのだが。困ったのは、名前と週に2日のみの非常勤講師の二人で高等部全ての地理の授業を担当しなければならなかったことだ。悲鳴嶼は一人で公民を受け持っていたが、キメツ学園では大学受験を考えて公民より地理を受講する生徒が多かったため苦労もひとしおだっただろう。悲鳴嶼より体力も経験もない名前はそれこそ目の回るような忙しさで、杏寿郎を含む全教師は彼女を進んで補助した。教育委員会から客人を招く大事な授業の日、準備室に忘れていた大判の地図を教室まで届けた杏寿郎に慌てて顔を青くし、それから心の底から安心した笑顔を見せた名前に、心にあった種が芽を咲かせたのを覚えている。頑張り屋な所は高く評価していたが、それに加えて守ってやりたいなんて思ってしまった。
絡めあう手を拒否することなく、軽い酔いに任せて上機嫌に腕を小さく揺らしている名前を見下ろす。イヤリングの花飾りが明かりを反射してきらりと光った。

「...そういえば、マジックで使った花、名前が持っているだろう」
「はい」
「もうマジックはしないかもしれないし、あんなに気に入ったならそのまま持って帰るか?」
「え?...あ、」

なんとなしに杏寿郎が問うと、名前はなぜか目を見開いて、すでに赤い顔をさらに真っ赤に変えた。その反応になんだどうしたとつられて目を見開くと、逃げるように視線をさまよわせる。

「あの、あの...」
「...どうした?ゆっくりでいい」

急いでいる訳ではないのであっさり足を止める判断を下す。駅まで少しのところで、杏寿郎は小さな手を引いて道の端に避けた。向き合う形になると、名前は繋いでいない方の手をもぞもぞと動かしはじめる。恥ずかしがっているときのくせだ。そして今度はなぜかじわじわとゆるむ瞳に涙が盛り上がっていく。ぎょっとした。

「は」
「ご、ごめんなさい!これはちがくて」
「なんだ、ほんとうにどうした?」

俯く名前に、軽くしかなかった酔いも一気に吹き飛んでしまう。慌てて身を屈め覗き込むと逸らされたので、道行く人々の好奇の目から隠すように背を向け、まるい頭を自身のシャツに導いた。背中を撫でると、きゅう、と握られたシャツにシワが寄るが、繋いだ手は離さなかった。

「...わたし、その、お花。もらったんだとかんちがいしちゃって」

暫くそのまま待っていると、名前が空気に溶けてしまいそうな小さな声で語る。そこで杏寿郎は「どうぞ」と言って花を差しだしたことを思い出した。マジックショーで、一度プレゼントしたものを回収しようとするみみっちいマジシャンはいない。名前が勘違いするのも仕方のないことで、恥ずかしがる必要は全くなく、それよりそんな低レベルな男であった自分自身を一番恥ずべきであった。
羞恥に駆られ、杏寿郎は慌ててくちびるを濡らす。

「す、すまない!もらってくれていい、むしろあんな物でよければいくらでももらってくれ」
「...それだけじゃなくて、あの」
「まだなにかしたか?!」
「ちがくて、!おれんじいろ、嬉しくて。れんごくさんの色だとおもって、...はずかしい......」

ごめんなさい、とシャツに顔を埋められると心臓が大きく跳ねた。周りの喧騒が一瞬遠ざかり、自分の鼓動だけが耳裏で響くような感じすらする。マジックの後のあの名前の顔の赤さは、そういう意味だったのだ。杏寿郎の存在を匂わせるような行為だったから、あんなに幸せそうな笑顔をしてくれたのだ。マジックを喜ぶ幼い千寿郎と重ね合わせて都合よく解釈していたが、自分の彼女の感情を正しく読み取ることもできないなんて、ほとほと嫌になる。

「...情けない男ですまない」
「そんなことないです...マジックかっこよかったし、また見たいし、まちがってません」

いつもの半分ぐらいの杏寿郎の声量から杏寿郎の心中を察してか、名前は顔は上げずに、けれど慌ててきっちり否定した。アルコールのせいで涙腺がゆるんでしまっていただけで、本当に泣くほどのことではない。あの一輪だって、なにか名前のついた花に似せたわけでもない、オレンジ色した鳥の羽みたいな花びらがついたただの造花。それをおおごとのようににしてしまって恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。でも、「好き」なんて気持ちは己に都合のいいように解釈して、想像して、ときには捏造だってして、そして成長していくようなものだというのが名前の持論で、だから杏寿郎に理解はされなくても、手渡された時にかすめた手の熱と、感じた想いは大事にしたいと思う。名前の頭の中には、杏寿郎の大きくて関節のごつごつとした男らしい手が、繊細な手つきでスカーフや花を操る光景が浮かんでいた。その時もギャップにどきどきして、ずるいひとだと思って。それから、知らない一面があることに、そしてそれを周りが当たり前に受け入れていることに少し嫉妬もしてしまった。
浅く息を吐く。

「名前、」

杏寿郎が頭を撫でて促すと、名前は「ちょっと待ってください」と首を振った。それでももう一度呼ぶと、ゆっくりと顔を上げる。涙を耐えているのか目元に妙な力が入っていて、ついと目じりを指でなぞると大きな一粒が耐えきれずに落ちていった。触れた頬が熱い。杏寿郎が街の明かりから隠しても、わずかな光を見つけて弾く瞳がきゅうっと細まる。噛み締められた唇の柔らかさを思い出し口付けてしまいたい衝動に駆られるが、そんな欲は知らないとばかりに無垢に名前は笑った。不意打ちに今度は杏寿郎が唇を噛む。

「...あのお花、だいじにします」

店先で宇髄にも言った通り、交際を隠したがったのは名前のほうだ。新任なのに浮かれていると思われたくないのだと言って。交際を頷かせるのに同理由でかかった時間を考えればなんでもないと思っていたが、もうあまり我慢できそうにない。居酒屋でオレンジ色の花に触れる姿を思い出すと、もっと欲ばってしまいたくなる。

「すまない」
「だから、謝らないでください〜...」
「いや、先に謝っておく!」

ぎゅう、と離れそうになっていた手をもう一度握りなおした。
情けないばかりの今日だが運はいい。まずひとつめに、まだ同僚がいるかもしれない中でちゃんとキスをこらえられたこと。ふたつめに、季節外れの上着を持っていたこと。ジャケットを取り出しまだ鼻をすする名前に頭から被せる。慌てる姿に口の端が釣り上がった。心臓がはやい。みっつめに、ここが駅の手前なのも都合がいい。杏寿郎の家は、ここから電車で二駅ほどだった。

「...はやくふたりになりたい」

さあ、頷いて許しをくれ。熱を孕む太陽に似た杏寿郎の瞳にまっすぐ射抜かれて、名前は光の明滅のようにひとつまたたいてから、ぎこちなく、でもしっかりゆっくりと首を縦に振った。



執筆:ろった様 / テーマ:許し
素敵なお話をありがとうございました
(20/09/04 掲出)



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