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君に近づくほど、私は遠のく

「炎柱様の脚ならどこへなりとも走って逃げられますよ」
「嫌なことがあったら、逃げてしまえばいいのに」
「走って走って、誰の目にも届かない場所へ行って。そこで土を耕したり牛を飼ったり、そうやって生きてはいけないなんて決まりはありません」

シャクシャク。
蝶屋敷で鬼から受けた傷を療養する俺のベッドの脇に置かれた木製の椅子の上、名字の手元の赤い林檎がたっぷり蜜を含んだ音をたてて、ほんのり黄色い顔をのぞかせていく。元鬼殺隊の一員なだけあって、刃物の扱いに長けた彼女の手の中で途切れない赤色が延々と伸びていった。
純粋な戦力として惜しい人材を失ったなと思いながらも、その器用さが戦いでなく何気ない日常に薄れていくのが俺は嬉しかった。

「蟲柱にも同じことを言っているらしいな!」
「言いますよ。何もかも嫌になったらカナエ様の羽織りを持って、カナヲとアヲイとみんなを連れて九州のあたりにでも走って逃げましょう、と。あのあたりなら鬼の繁殖力も及ばないでしょうし」
「胡蝶はなんと」
「いくらあなたといえど、次にその口を開いたら針と糸で縫い付けますよ…と言われました」

当たり前だ。胡蝶カナエに拾われ長く蝶屋敷に住む彼女なら、その言葉が胡蝶しのぶにとって許しがたい意味を持つと察しが付くだろうに。
柱に対して憎まれ口をたたく不遜さとは裏腹に、皮を剥いた林檎を丁寧に細かく、怪我をした自分にも食べやすい大きさに切り分ける気遣いを目の当たりにし、俺の胸はほんのり熱を持つ。

「ならどうして、あえて嫌われるようなことを言うのだ」
「鬼殺隊の柱ともなれば少し退くだけで他の隊士達の士気に影響しかねません。たとえば戦場で一歩でも後に下がれば『あの柱ですら鬼には敵わない』、並みの隊士がそんな疑いを一瞬でも持ってしまえば立ち直るのは難しい」

言葉の終わりに彼女は自身の膝に視線を落とした。彼女の右足は鬼との戦いで食いちぎられ、太ももから下が失われている。結果、彼女は悔やみながら鬼殺隊からの除籍を余儀なくされた。

「そうやって、立場が上になればなるほど…自然と退路は断たれてしまう。特にしのぶ様は本当は誰よりも強がりな方だから、女性の身を尚更に補おうと奮い立つ。だから、差し出がましいと知りつつ、嫌われても良い、せめて私だけでも逃げ道になって寄り添いたいと思うのです。実際に逃げるという選択をせずとも、選択肢があるのと無いのとでは、心の負担が違うと思うから」

独り言が過ぎましたね。
言葉尻に苦笑を添えた彼女は透明な器に移した林檎に楊枝を刺し、俺に差し出す。恋仲でもないのに口を開けて強請れば、彼女は眉一つ動かさず照れもしないで俺の口に林檎を運んだ。
シャクシャク。
千寿郎が寄越したものだが、したたる蜜がこっくり甘い良い林檎だ。

「君は本当に胡蝶が大切なのだな!」
「ええ、大切です」

胡蝶を思い描いて優しく微笑む彼女の表情に、舌に残る甘い果汁を羨望の念が苦く塗りつぶす。

「ですから、これは受け取れません」

白い手拭きで林檎の蜜をぬぐい、彼女が代わりに俺に突き返したのは以前求婚の言葉と共に贈った赤い珊瑚の簪だった。
手渡した時と同じ懐紙に包まれ、一度も髪に通していないと分かり落胆する。



この簪を彼女に贈る際、俺は先ず胡蝶に了承を得ようと己の心内を蟲柱に明かした。
胡蝶はひどく複雑そうな表情をして一つ息をつくと、背を追いかける「花柱」の顔ではなく「胡蝶しのぶ」として寂し気に口角をゆるめた。

「本当は鬼とは無縁の家に嫁いで欲しかったですけれど、煉獄さんなら仕方ありませんね」
「すまない、だがどうしても俺は彼女と夫婦になりたい」
「一応確認させてください、あの子を娶るという気持ちに『同情』や『責任感』が混ざってはいませんか?」
「絶対に無い!…とは言い切れん、すまない」
「いいえ、正直に答えてくださってありがとうございます」

鬼の出没を告げる鴉に導かれ現場に到着した時、彼女の右足は既に巨大な鬼の口の中だった。鬼の牙に噛まれ吊るされた状態の彼女は俺の姿を見つけると、すぐさま日輪刀で鬼の下顎を貫き動きを止め、その隙に俺が頸を斬った。そして、鬼の毒が回り壊死の始まった細い右足を斬り落としたのも俺だ。

彼女は戦線への復帰が絶望的だと知ると、泣き叫び全身を掻きむしり地面に額を擦り付け胡蝶に謝罪したという。こんな自分を拾ってくれた胡蝶姉妹の恩に報いる術を失ったと。

「名前が鬼殺隊を辞めて蝶屋敷に戻ってきた時、正直安心しました。とても怖がりで臆病で、戦いなんて不得手な子です。それを私たちの為だけに必死に心を殺して、戦ってくれていた…鬼どころか血を見る事も苦手なはずなのに。私に逃げろ逃げろと言うけれど、きっと本当に逃げたかったのはあの子なんです」

するすると胡蝶の口から流れ出す彼女への思いは深い愛情に満ちていた。
血が繋がっておらずとも、この屋敷に住む者は皆、胡蝶にとっては大切な家族なのだと分かる。

「ですから、あの子が私に逃げ道を作ってくれるように、私もあの子に幸せへの逃げ道を拓かなければと思っていました」
「胡蝶は本当に彼女が大切なのだな!」
「ええ、もちろん」



「私は蝶屋敷の人間です、ここを出て行くなんて考えられません」
「俺の家から此処へ通えば良い」
「夫となる人の家も守らず出歩く女を妻と呼べるでしょうか」
「そんな些事を揶揄する人間は煉獄家にはいない」
「でも、私はこのお屋敷に御恩が」
「既に胡蝶には君との婚姻の許しを得ている」
「そんな…!」

名字の顔にはありありと、胡蝶に捨てられたのではないかという焦りと悲しみ、絶望が浮かんだ。そうではない、と言葉を挟んでも、取り乱した様子で視線をさ迷わせる。

「争いごとが辛く血を見るのが恐ろしいなら、俺の元へ逃げて来てくれ。胡蝶もそれを是としているのだ」
「っ…!私は…私には脚がありません、走れないのです」
「君ひとり抱えて走るぐらい容易いものだ!」
「…それでも、しのぶ様が許してくださったとしても」

彼女の髪に飾られた蝶の羽が太陽を浴びて燐光を放つ。俺の贈った簪は不要だと、首を横に振る彼女の頭上で鮮やかに紫紺の羽が舞った。
まるで、既に彼女の運命は舞い上がる蝶によって俺の手には届かないと告げるように。

「私は、しのぶ様とこの屋敷がなければ生きられない」

喉の奥がぐっと強く締まる。
息が浅くなり苦しくなる。
それでも、やはり俺はこの蝶を追いかけるのをやめられそうになかった。


執筆:十才様 / テーマ:片恋
素敵なお話をありがとうございました
(20/07/19 掲出)



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