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紫雲膏

 細く長い板張りの廊下を、ゆっくりと踏み締める音がする。
 雨戸を閉め、密閉された部屋の中に床板の微かな軋みが反響し、名前の耳に届く。
 枕元の行燈の火が微かに揺れ、徐々に近づいて来る聞き慣れた規則的な足音に、彼の気配を察知する。


「師範、お入りください」


 名前が布団の上に横たわったまま僅かに眼を開いて言うと、彼はちょうど自分の身体が入る分だけ板戸を開き、そろそろと室内へ這入った。師の入室に上半身を起こせば、君は横になっていればいいのだと、おおきな手が優しく彼女の肩を押す。


「どうしたのです」
「なかなか寝つけなくてな」
「火を起こしましょうか。先刻消したばかりですから、火鉢はまだ暖かいはずです」
「いや、いい」


 彼は断りながら、片手で掛け布団を捲りあげ、名前のとなりへごろんと身体を横たえた。

 横を向き、下になった片腕をくの字に折り畳んで枕がわりに頭を乗せ、体勢を落ち着かせるべく頑丈な筋肉質の体躯は下へと下がってゆく。名前と同じ位置に向き合っていた視線は、彼女の崩れて肌蹴た寝巻の胸元にまで下降する。そうして柔らかな膨らみの前へ顔を寄せた彼の旋毛を薄明かりの中で見下ろし、名前は少しばかり呆気に取られたような表情を浮かべたあと、口角をゆっくりと左右に引き伸ばして穏やかな笑みを湛えた。




「わたしは、貴方をときどき幼子のように思います」


 目を閉じたまま、彼が笑う。
 短く吐かれた息が胸元に掛かり、くすぐったさに身を捩る。

 布団の下の方で、互いの足が縺れる。


「男などは皆そんなものだ。短気で、強情で、小心者のくせに見栄っ張りで、いつまで経っても子どものように甘えて居たいと思っている。女のほうがずっと賢く、我慢強く、胆力があり、頼りになるのが実際だ」
「ご自分のことを、よくご存知ですこと」


 言いながら、名前も笑う。
 丸みのある肩が震え、胸を伝い、みずみずしい肌の表面が彼の鼻先を掠める。


「その点で君は、俺の愛弟子であり、良き恋人であり、また慈しみ深い母のようでもある。こうしていると俺はとても心地よく、安心する」


 まるで母に抱かれた子どものように名前の胸に抱かれ身を縮める眼前の彼が、数々の鬼を駆逐してきた屈強な剣士であるとは到底見えず、彼女はまた、肩を揺らす。

 名前は乳母に抱かれて眠った幼い日々の記憶を思い返し、また一度も経験のない育児──妊娠すら経験していないのだから当然のこと──を思い、生まれながらに身体に染みついた母性と、目の前の身体だけは立派な男の形をした我が子──あるときは師範であり、またあるときは恋人でもある──への溢れる愛おしさとに、言いようのない懐かしさのようなものがこみ上げ、彼の額から前髪の生え際を、繰り返しかき上げるように優しく撫でた。


「子守唄でもうたって差し上げましょうか」
「うむ、ぜひそうしてくれ」
「冗談ですよ」
「ほんとうにうたってくれてもいいのだが」


 そう言って名前を見上げれば、恥ずかしげに微笑む彼女の目に彼は母の面影を見たような気がして、いっそう彼女を離し難く、背中へ手を回し、肌蹴た谷間の入り口近くへ、しきりに唇を押しつけた。
 舌の先を僅かに尖らせ舐めてみると、なんだか甘い味がした。



 ふと名前の目が、彼の額に虫に刺されたような赤い痕があるのを見つける。
 指先で患部をそうっとなぞり、彼に訊ねる。


「痛みますか」
「なに、たいしたことではない。長火鉢から飛んだ火の粉が当たって、ちょっと火傷しただけなんだ」
「わたしの鏡台の抽斗に塗り薬があります」
「では、あとで塗ってくれるか」
「これから任務があるんでしょう、すぐにお出ししますから」
「いまはまだもう少し、このままで……」


 恋人の胸に顔を埋め、あたたかい包容の揺り籠の中で、彼は眠る。
 やがて穏やかな寝息がきこえはじめた頃、突然に鎹鴉が鳴き、次の任務の開始を告げる。


「行って来る」


 即座に飛び起きて自室へ駆け戻り、隊服に着替えた彼は、やはり赫々たる威厳に満ち、名前は寝巻の襟を整えながら起き上がり、その場に正座し、粛々と彼を見上げる。


 彼の腰に差した日輪刀が行燈に照らされ影をなし、刀身が身体を貫いているようにも見え、彼女はとっさに頭を振り、目蓋を閉じる。閉じた目蓋の裏で、夜の闇を切り裂くような彼の抜刀、切先が月の光に反射して艶かしく輝き、烈火の斬撃が鬼の頸を撥ねるところを想像する。鬼の血に塗られた刃は降り注ぐ月光の白い光線を浴び、より美しく、燦爛と輝きつづけるだろう。そして彼の信念、赫き炎刀を継承するのは、わたしでなければならないと、強く思う。

 わたしは彼の母であり、恋人であり、弟子なのだから。


「師範、お気をつけて」





 その後、ふたりは各々に断続した長期的な任務の遂行を課せられ、ふたたび床をともにすることは、ついにかなわなかった。名前の鏡台の抽斗にはあのときの塗り薬が、今日も使われぬまま、ひっそりと眠っている。


執筆:リラ様 / テーマ:別れ
素敵なお話をありがとうございました
(20/06/21 掲出)



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