わたし2 「それは分からねえが」 答えたのは初めに声をかけてきた彼。 声を聞く限り男性に違いないのだけれど、桜色の着流しを着て髪を結い上げているその容姿は、どう見ても女性と間違えてしまいそう。 「どっちにしろ名前がないと不便だ。確かにその声はお前さんを呼んでるように聞こえたんだろう?」 「えぇ」 切ないくらい。 何を求めているのかは分からないけれど。 「そうよ」 群青に紛れて見えない彼はしきりにひとみと叫んでいた。 私に向けられたものだと思ったのは… それが何故か、私の胸を強く揺さぶったから。 「なら、ちゃんと思い出せるまでその名を名乗ると良いじゃないか」 「…そう、させていただくわ」 思い出せるまで、ね。 私は、思い出せるのかしら。 全て。 「………」 何故かしらね。 あまり、思い出したいとは思わない。 私が何者か…ねぇ。 「ひとみ」 ついさっき付けられた私の名前を呼ぶのは、着流しの彼。 用があるのかとそちらに目を向けるも、彼は黙って私をただ見ていた。 「……?」 「良い名前じゃないか」 何を言われるのかと思えば… 「…それはどうも、ありがとう。そう、言うべきかしら」 「ああ」 そう言って彼は顔を一度伏せて、そしてあの大男を見上げた。 「記憶がないんじゃどうしようもねぇ」 「どうだ、親父。こいつを客人として置いておくのは」 “おやじ”と呼ばれた大男。 あら、この方は息子さんなのかしら? “おやじ”さんは着流しの彼をジッと見つめてから私を見る。 「こんな広い海で出会った。これも何かの縁だなあ」 そしてそう呟いた。 まるで独り言かのように。 それ以上話さない“おやじ”さんに変わって、“おやじ”さんに一番近い位置に立っていた人が口を開いた。 「そう言うわけだ」 初めに着流しの彼が来たとき側にいた人。 そして、あの冷たい言葉を発した人。 特徴的な髪型だもの。 間違えないわ。 「お前は、俺たち白髭海賊団が面倒見るよい」 その言葉にピクリと身体が動いた。 「…海賊?」 「、…まさかお前、気付かなかったのかよい」 「えぇ」 全く。 全然思いもしなかった。 そう言えば、と“おやじ”さんの後ろの柱を見上げる。 そこには髑髏のマークらしきものが風に靡いていた。 そのマークは“おやじ”さんにそっくりで、この船が彼の船だということを物語っている。 「海賊らしくないのね」 口をついて出た言葉。 とても穏やかな空気の流れる船。 初めの印象はそうだった。 海賊といったらもっと怖いのかと思っていたけど。 案外そうでもないのね。 「怖いか?」 「…いいえ」 初めの印象が良かったもの。 今更怖くなんてないわ。 「海賊船でも、お前はここにいるか?」 「居てもよろしいのですか?」 「グララララ。一度預かると決めたんだ。男に二言はねえよ」 豪快に笑う“おやじ”さん。 ひとまず、有り難く好意に甘えようかしら。 どうやらここは、私の常識は通じない世界のようだし。 何より私には記憶がない。 どうするか考えるのは、少し思い出してからでも遅くはないでしょうから。 「お世話になります」 頭を深く下げた私に、あの冷たい彼が少し近づいてきた。 「かしこまるなよい。自由にしていいんだ。ここのは皆、親父の息子。客人に悪さをする奴は居ねえよい」 「息子、ですか。随分と多いですね」 頭を上げて思ったことを言うと、彼の豪快な笑いが響いた。 「グララララ。親父や息子ってのは愛称みたいなものだ。この船にいる奴は皆、俺の家族だ」 「家族…ですか」 …嫌だわ。 仲間とかが嫌いなわけではないのだけれど。 家族。 その単語が、どうしても胸をざわつかせる。 私はひとつ深呼吸をする。 「お前も、遠慮するな。皆家族だと思えばいいんだよい」 そう言って彼は薄く笑っているが。 その声はやっぱり、冷たかった。 [*prev|next#] [mokuji] top |