わたし


辺りは見渡す限り人、人、人。

大勢の人に囲まれた私は、その真ん中で立っている。

ざっと見ただけでも優に2・300は越えそうね。

ここは確か船の上だったはず。

確かにこの船はとても大きいけれど、こんな人数…

よく船が沈まないわね。

さっき横を見たとき、同じ様な大きさの船が2・3隻あったけれど、そこにもこれだけの人数がいるのかしら。

だとしたらすごい大所帯ね。

一体何をしてる人達なのかしら。


「おい、娘」


鼓膜を震わす重低音に、そちらへ顔を向ける。

しかし向けるだけでなく見上げなければならなかった。

なんたって目の前にいる彼は人間とは思えない大きさなんだもの。

見上げなきゃ顔どころか上半身すら見えないわ。

ああ、首が痛い。


「お前ぇ、名前は」


鼻下に真っ白で立派な髭を湛えた大男。

彼はその体に似合う大きな椅子に腰掛けて、私を見下ろしていた。


「わかりません」


私は彼の目を見て言う。

何故だか、逸らしてはいけない気がした。

何故かしらね。


「家族は?」

「わかりません」

「住んでいた所は?」

「わかりません」

「何も、か?」

「わかりません。何も…」


答える度に、空気が冷えていく。

それは周りの空気か、もしくは私自身か。

足下からひんやりと。

深海に落とされたように。

どんどん冷えていき、やがて息がし辛くなっていく。

その感覚に、なぜだか恐怖感はなかった。

寧ろ包み込まれた安心感を覚えた。


「そうか」


静かに答える大男。

…分からない。

気が付いたときには、手すりに座って海を眺めていた。

青く。

でも太陽の光を浴びて白く光る海を。

ただぼうっと見ていた。

そしたら足音が聞こえて。

彼らに会って。

話を聞かせてくれと。

そうして今の状態に。

私は誰か。

そんな事、問われるまで考えもしなかった。


「本当に、何も覚えてないのかよい」


冷えた空気を縫うようにして私の耳に届いたそれは、なぜか冷たく感じた。

纏わりつく冷たさが少し不愉快で、それを振り払うように首を横に振る。

そして言葉を、ぽつりぽつりと落とす。


「申し訳ありません。私は…自分の事すら知らないのです」


でも、唯一。

たった一つだけ覚えていることがある。


「覚えているのは、誰かが泣きそうな声で呼ぶ名前だけ」


暗いのに真っ黒ではない。

透き通った群青に包まれた中で。


「姿は見えませんのに、あまりにも痛々しく、悲しい声が…耳から離れないのです」


ずっと、目覚めてからも響く声。


「その方はしきりに叫びました。…ひとみ、と…」


明るく眩しいくらいに光る海をぼんやりと見ながら、私は考えていた。


「それは、私の名なのでしょうか」


誰かに聞きたいわけではなかった。

ただ思ったことを言っただけ。

それだけだった。

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