PPPPPPP、P
「もしもし……佐藤?……いや、そんなことない元気だよ。今?長野にいる。ああ。こんな時間にどうした……」
「―――」
「……それは本当?」
「―――」
「ああ、分かってる。うん……うん。じゃあ急がないと。すぐに支度する。健二には悪いけど、仕方ないな」
「今から、帰るよ」
P
…
……
………
眠れない。夜の帳はすっかり幕を下ろし鈴虫たちの声もまばらになり始める深夜。僕はごろりと寝返りを打って大きなため息をひとつついた。
「(ナマエ……さん)」
どうして。思い出すとまたじわり、と瞳が潤む。
ナマエさんのもとから飛び出した後、僕はずっと部屋に閉じこもってひとりで泣いていた。獣のように、唸るように。悲しくて悲しくて声すら出なかった。ひたすら痛む胸を押さえて嗚咽を漏らした。ぼろぼろ零れてくる涙は止まるところを知らず今ではすっかり両目は腫れて赤く染まっている。
「(これが……憧れ?)」
こんなにも苦しくて心臓を引き裂くような想いが、ただの憧れなのだろうか。
「(分からな、い)」
分からない。解からない。自分の思いも、ナマエさんの思いも。何もかも悲しみで塗りつぶされて。
「ナマエさん……」
助けてよ……。こんな時ですら僕が助けを求めるのはナマエさんなのだ。
「(馬鹿らしくって涙も出ない)」
何も告げなかったら今頃……今でもナマエさんの隣にいられただろうか。そしてまたくだらない話をして……笑って……。
そのことを考えると再び悲しくなってきたが、でも後悔はしていなかった。からかわれていたのだとしても今、この瞬間も僕はナマエさんのことが好きなのだ。辛い時に考えるのも幸せなときに考えるのもナマエさんのことばかりなんて笑ってしまう。
「(涙……もう引いてる……)」
ほう、とひとつ息をつけばなんだか胸が軽くなった気がする。もう寝よう。眠って、それからのことは明日考えればいい。
布団をかけなおして目を瞑る。なんだか今度は眠れそうな気がした。瞼の裏の暗闇を静寂が包む。
とたとたとた。
……?
とたとたどたどたどた。
「(……足音……?)」
大きくなる音に思わず身を起こす。月明かりが透かす障子には何も映らない。ただ足音だけが大きくなっていく。
どたどたどた…だだだだだだだ。
「(何、近づい、て)」
すぱぁん!!
「佳主馬くん!!」
突然現れた人影に驚いて開け放たれた障子を見つめると酷く焦った様子の夏希姉ぇが息を切らせて佇んでいた。嫌な予感がする。
「何、どうし「ナマエさんが!もう帰っちゃうって!!」
「……え?」
何?
「仕事の都合で急に呼び出しがかかって!おじさん達がさっき見送ってたから今出たばかりだと……佳主馬くん!?」
頭で考えるよりも先に体が動いていた。縁側に置いてあったサンダルを適当に引っ掴んで家から飛び出す。生垣と畑を通り抜ければまだ間に合うはずだ。祈るように思った。
「佳主馬くん!!」
夏希姉ぇの声が遠い。でも今は何も考えられなかった。ただ速く。速く。
「(はやく)」
ナマエさんのもとへ。
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6日前に通った道をなぞるように車を走らせる。周りをとうもろこしに囲まれた田舎道だ。左右の見通しは悪くのろのろとハンドルを切ればガリ、とタイヤが砂利を踏みしだく音が響いた。
「(健二はまだ怒ってるかな)」
帰り際のふて腐れた顔を思い出す。理由が仕事なだけに文句は言われなかったが、それでも不満そうな表情をしていた。あれは家に帰ってからご機嫌取りをしなくてはならないだろう。
「(陣内家方々にも迷惑をかけてしまったし)」
何しろこんな時間だ。時計の針はもうすぐ23時40分を切ろうとしている。それなのにも関わらず笑顔で送り出してくれたあの家の人々はみな良い人たちばかりである。健二が懐くわけだ。
細い砂利道を緩やかに右へカーブする。ガラス越しに見る夜空には都会では見ることのできない星空が輝いていた。音楽でも聞こうかとオーディオに手を伸ばして――止めた。そんな気分にはなれなかった。
「(……佳主馬くん)」
最後に走り去っていった小さな背中。たった6日間しか一緒にいないのに、そのうちに何度も泣かせてしまったように思う。
「(今も……泣いている、かな……)」
まだあの幼い少年が自分の気持ちを伝えるのにどれだけの勇気を要しただろう。先際の泣き顔が頭について離れない。嘘だよ、と頭を撫でられたら、どれだけよかっただろう。
「(大嫌い……か)」
それでよかったんだと思う。あんな良い子が俺に、なんて勿体なさ過ぎる。いずれ後悔する前に突き放した方がいいのだ。俺にとっても。
想いを断ち切るように頭を振って前を見据えると突然がさりと音がして右の茂みから何かが飛び出してきた。暗がりでもよく分かる、この一週間で見慣れた姿が目に飛び込んでくる。
「……っ!」
急いでブレーキを踏むと耳障りな音と共に車が止まった。それに合わせて車のライトに照らされた彼が眩しそうに目を細めながら駆け寄ってくる。
スピードが出ていなくてよかった。もし、スピードが出ていたら……ああ、もう!何てことするんだあの子は!!
「佳主馬く……っ!」
エンジンを切って車から降りる。注意のひとつでもしてやろうと名前を呼ぶとその前に鉄砲玉のように佳主馬くんに飛びつかれた。
「行かないでよ!馬鹿! ナマエさん……!!」
吃驚してじっと抱きついてくる佳主馬くんの旋毛を見つめる。ぎゅうぎゅうと思い切り抱きしめられている腰が少し痛い。
「嫌いだなんて嘘だ!からかわれていたって……今でも、こんなに好きなのに……!!」
ぐりぐりと腹に押し付けられていた顔が、ぱっとこちらを仰ぐ。涙の滲む瞳は星空を飲み込んできらきらと輝いている。
「ナマエさんの言うとおり僕はまだ中学生だよ! ナマエさんとは健二さんとより年が離れてるし……まだまだナマエさんから見れば子供かもしれない、だけど!!」
強い眼差しが俺を射抜く。この熱のこもった視線を何度受け流してきただろうか。けれどもう誤魔化すことなんてできない。それくらい、惹かれてる。
「僕は!確かにナマエさんのことが好きなんだ!!憧れなんかじゃない!こんなに!こんなに苦しくて……切ないのにっ!」
ぎゅっと服を掴んでいた指がゆっくりと弛緩する。
「ナマエさん……」
俺の名前を呼びながら再び俯いてしまう目の前の少年に、どうしてこれ以上嘘がつけようか。
「好き、好きなんだ……僕……」
「佳主馬くん」
自分に出来うる限り優しく名前を呼べばぴくりと肩が跳ねた。そのまま顎にすいと手とかけて顔を上げさせる。今だ目を伏せる彼の頬は涙で濡れている。また、泣かせてしまったなぁ。
「こっち向いて、お願い」
懇願するように囁けばようやくこちらを向いてくれた。涙に縁取られた瞳には先ほどとは違って不安が揺れている。思わず笑みが漏れた。
「好きだよ、佳主馬くん」
ゆっくりと、目を見て告げれば大きな目が見開かれる。
「ごめん。ごめんね。好きだから、これ以上好きになる前に突き放そうとした俺を許してね」
涙の雫を指で拭いながら懺悔すれば彼はぱちくりと目を瞬かせた。少し幼くなった表情が可愛らしい。
「君はまだこんなに若いから、これから素敵な人ともたくさん出会う。こんな所でその可能性をつぶして欲しくなかったんだ。……もし俺と恋人になったら、その時に君を素直に手放せる気がしないから」
ぽつりと本音を漏らせば佳主馬くんに両頬を叩かれた。ちょっと痛い。
「ばか!馬鹿ナマエさん!!そんなくだらないこと気にして……!僕はナマエさんがいい!!ナマエさんが好きだから、この先どんな人と出会ってもナマエさんじゃなくちゃ嫌だ!!」
顔を真っ赤にさせて怒る少年は、けれど幸せそうに微笑んだ。その笑顔に自分を思わず笑む。
「うん、ごめんね。俺も好きだよ。佳主馬くん」
そう言って佳主馬くんを抱き寄せてそっと頬に口付けた。
「……なんで口じゃないの……」
顔を真っ赤にさせながらぶすっとそっぽを向いてしまった彼にくすりと笑って頬に手を添える。
今度は軽く、唇にすれば一瞬だけとろんとした後に唇を尖らせてこう言った。
「駄目。もう一回。恋人にするみたいにやって」
可愛らしい駄目出しに思わず吹き出すと携帯が突然鳴り出した。コールを続ける携帯をぽいと車内に放り投げて可愛い恋人に口付ける。
時刻は丁度7日目の午前0時。二人が出会って、1週間後の出来事だ。