短編

ナマエには愛する妻がいた。いた、というのは所詮過去形の話で、現在はいないという意味に等しい。つい数日前に別れた彼女を想い、かつ忘れるために親しい友人を引き連れてマリンフォードの隠れ家というよりは古巣に近いバーでベロベロになるまでこうして飲んだくれている。

「仕方のないことだとは思うぞォ、俺も。だけど話をされてからこんなに早いって用意周到すぎだろぉがコノヤロー」

そうぼやきながらグラスを傾けるナマエは大層酔っていた。自暴自棄になっているわけではないが、嫌なことがあったら酒を飲んでさっさと切り替える質のナマエにとって、これくらいの酩酊はそう珍しいことでもなかった。それは毎度この酒場に付き合わされる親友…クザンにとっても変わりないことで、いつもと同じように傷心の友人のことをあやしていた。

ナマエとクザンは同期である。丁度同じタイミングで海軍に入隊した二人は、ナマエのざっくばらんな性格とクザンのマイペースな質の相性が合ったこともあり、二十五年間変わらぬ友情を育んでいる。雑用のころからのそれはナマエが中将に、クザンが大将になってからも変わらない。

「ま、ぐだつくよりはスパンとしてて気持ちいいじゃない。彼女らしいっちゃ彼女らしいよ」

ナマエの結婚は早く、二十代前半の頃だった。激務であり、命の危険すらある海軍職に就く者としては異例の早さである。退役してからする者だって少なくない職業だ。何せ海兵ときたら基本は宿舎暮らしで、休みなど滅多になく訓練に明け暮れるせいで家族サービスなどできようはずもないのだ。
そのうえナマエはクザンより早く中将になった。人にもよるが仕事一徹だったナマエは、そりゃあもう結婚当初から見事に夫婦すれ違い生活を送っていたのである。それが何故二十年近くも夫婦生活を営んでいけたのかというと理由は単純で、妻も仕事第一な人間だったからである。

人気ファッションブランド、クリミナルでデザイナーをしていた彼女はそれはナマエに負けないくらい多忙で、二人の自宅にはいつも埃が溜まっているくらいだった。それでも別段夫婦仲が不仲だったというわけではなかったが、如何せん彼女がデザイナーとして第一線を退いたのが今回のきっかけとなっていた。

「分かっているさ。こっちも納得してのことだったから」

仕事に区切りをつけて家庭に目を向けた妻は、その余りのお粗末っぷりに愕然としたのだろう。何せ自分たち夫婦は恋人同士だった頃と何ひとつ変わっていなかったのだから。ナマエには、その気持ちがよく分かっていた。
自宅に帰っても誰も居ないのが当たり前。相手の生活感のあるところを見るのは滅多になく、デートをすることもすっかりなくなっていた。むしろ退化している。
恐らくお互いに甘えすぎていたのだろう。最後に彼女の言った「私たちは意味がない」という言葉の意味がよく分かる。

「離婚…離婚かぁ。なんかこうイマイチ実感はしねぇが。漠然ともの悲しいもんだなァ」

グラスの酒を一気に煽ってからナマエがそう呟く。度数の高い琥珀色のそれは燻るような熱さでナマエの喉を焼いた。熱そうに髪を掻き上げる仕草をしたナマエを見つめてクザンは目を細める。柔らかく口を開くとするりとすべりこむような口調で親友に向かって呟いた。

「まぁ良かったじゃないの。良好な形で別れられて。彼女は自分の人生を歩んで行くわけだし…ナマエには俺がいるでしょ?」

「……お前?」

ナマエは訝しげにクザンを見つめる。クザンはニヒルに笑ってみせると「あらら…分かんない?」と諭すように囁いた。

「口説けってことでしょうが」

静かに笑うクザンにナマエは言葉を失った。口調は冗談めかしている。けれど瞳はどこか悲しげで、溶けそうなくらいの熱が篭っていた。誰よりも長い、人生の半分以上を共に過ごしてきたのだ。真実、冗談などでないことは明白だった。

そして、それを冗談にするかしないかはナマエ次第である。


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