短編
ぬかるんだ大地を踏みしめて俺は薄っすらと笑みを浮かべる。片手に握ったバールに力を込めればぬるりとした血液が手のひらを汚した。その感覚に口元の笑みを深める。この羽生蛇村が悪夢のような惨状に成り果てて、すでに何時間が経過しただろうか。無我夢中で動き続けてきた自分にはもう分からない。腕に巻きついている時計はすでに時を刻むことをやめてしまっている。あれだけぶつけたり雨風にさらしていれば当然か。しかしそんなことはさしたる問題ではない。重要なのはこれから自分がどこで、何人を殺せるのかということだ。


昔から自分は加虐性に富んだ人間だった。小学校では理科の解剖が大好きな子供だったし、喧嘩や動植物を虐めるのだって日常茶飯事だ。年齢を重ねるにつれ、表面的にはそのような能動で動くことはなくなったが、それでも生物を傷つけたいという鬱屈とした想いは腹の奥底にしんしんと沈殿していった。まるでワインの澱のように。深く深く…押さえ込めば抑え込むほど濃度を増していくそれは自分自身にすら手に余る衝動だった。

元々がそんな屈折した人間であるから職業も合法的に人を切り刻むことのできる外科医を選択した。必死の勉強のもと医大に入り、そのままストレートにこの羽生蛇村唯一の病院である宮田医院に勤め出した。寒村とはいえ医療設備が整っているため切り開く患者には事欠かない。そんな歪さを内包しつつも平和だった日常は、奇妙なサイレンの音と共に唐突に終わりを迎えた。赤く染まった空、血のような雨、突然襲いかかってくる異形と化した村人たちーー。

しかし、この状況に自分は少なからず喜びを見出していた。いや、少なからずなんてものじゃない。俺は歓喜していた。この状況に。この…人を殺しても何の支障もない素晴らしい現実に。


誰かも分からない女を殺した。鉈を振り回して襲いかかってくる男を殺した。振りかざしたバールが、青白い肌を抉るのを、骨を砕くのを感じた。手のひらに残るその感触が、何だかとても尊いものに感じて両手を握りしめる。殺した奴らは再起不能になると体を丸めて硬くなり、数分の後に復活を繰り返した。つまり終わりがないのである。この事実に俺は身の毛がよだつほどの喜びを感じた。俺は人殺しになることなく人を殺し、そして誰かを害し続けることが出来るのである。それは仕事で人の生死を掌握することよりも随分と刺激的で、かつ愉快なことだった。俺は自身が長年胸中に燻らせていた鬱屈としたこの情動を、見事に昇華させる場を与えられたのである。ああ、この世はなんて素晴らしい。



すっかり地形の変わってしまった村の中を新たな獲物を探して彷徨い歩いていると、自分の働いている宮田医院の旧施設と思わしき病棟を発見した。今の設備の整った職場とはまるで違うが、掲げられた看板に表記された文字は同じである。誰かいないものかと中に入ると案の定すぐに化け物たちがわらわらと群がってきて俺はほくそ笑んだ。外にはあまりいなかった、限りなく化け物に近いタイプである。

大きくブリッジをして蜘蛛のように這い寄ってくる姿は醜悪で、その殴りやすい位置にある頭部を力一杯殴打した。ぎい、という奇妙な声を上げて動かなくなるそれを見下ろして俺は唇を吊り上げる。楽しい。化け物を殺すのはなんて楽しいんだろう。小さく丸くなった体を蹴りつけて、俺は笑った。化け物の体は硬くなってしまって意味はないが、それでも何度も踏みしだく。


「ミョウジ?」


すると突然背後から名前を呼ばれたのでゆっくりと振り返った。そこにはハンマーのようなものを握った仕事仲間が静かな目でこちらを見つめて佇んでいる。


「宮田院長、じゃないですか」


俺は努めていつも通りの表情で彼を見つめた。彼は俺を無表情で見つめ返す。


「生存者を見たのは初めてだ。生きていたんですね…良かった」


そういって彼に歩み寄る。院長は微動だにせずまっすぐにこちらを見つめながら佇んだままだ。あたりには誰もいない。今の状況を見渡して俺はふと、思い立った。

自分はまだ"まともな人間を"殺したことはない。今、あたりには化け物達すら居ない、完璧な無人状態である。ここにいるのは彼と俺の二人だけ。院内に誰かいたとしても村がこの状況では悲鳴なんて珍しくもない。つまり、俺が、ここで彼を手にかけたとしてもーー。

右手の凶器を握ってごくりと生唾を飲み込む。彼とは特別仲がいいわけではなかった。特に悪くもないのだが。同じ職場で働く同僚…それだけだ。俺は柔らかい笑みを浮かべて彼に近づく。院長は動かない。俺は右手に力を込めた。そしてーー。


「知っていたよ、ミョウジ」


その言葉にバールを振り上げようとしていた右手が寸でのところで止まる。目を見開いた俺に彼は淡々とした口調で続けた。


「お前が誰かを傷付けたくて仕方ない異常者だってことを、俺はずっと前から知っていた。…ずっとずっと、見ていたからな」

「…院長?」


何だか、様子がおかしい。俺が振りかぶろうとしていた手を下ろして様子を伺っていると彼は俺を見つめて綺麗に微笑んだ。院長の笑顔なんて、初めて見た。普段いつも無表情でいるから、それ以外の表情なんて出来ないのかと思っていたのに。


「漸く…ようやく二人きりだ。ミョウジ…いや、ナマエ」


院長はうっそりと微笑んで俺に歩み寄ってきた。握っていたハンマーを白衣のポケットに滑り込ませてこちらに向かって両手を広げる。無防備なその姿に俺は目を見開く。


「いいんだぞ?殺しても…俺を」


美しく唇を吊り上げた彼は柔らかな動作で俺の首に両手を回す。俺は呆然としながら「何故」と問い掛けた。


「ナマエを愛しているから…あなたの唯一になりたいんだ」


ナマエが殺す最初で最後の一人に。

そう言って笑った院長は酷く嬉しそうで、俺は得体のしれない寒気を覚える。彼がずっと俺のことを見つめていたことや、俺の倒錯した性質を知っていたなんてこれっぽっちも気付いていなかった。しかし、今はそれよりも。


「宮田院長」


死を厭わない人間を殺したって、何の楽しみもないじゃないですか。


そう言った俺を見つめたあなたの表情は、たいそう見ものだったけれど。





サロメの男


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