俗人の白日夢
もう一度、目を覚ます。
酔いは覚めたはずだが相変わらず気分は最悪だった。部屋の中はしんとしていて人影は見当たらない。二度目の起床に足元を見下ろすと切断されたはずの両足が元どおりになっていて、俺は確かめるように自分の足に何度も触れて感触を確かめた。問題無く動く事を確認して、ひとまずはホッと息をつく。

オペオペの実。はじめて聞く能力だった。
主人公と同じようなトンデモ能力か。何にせよ、自力でトラファルガー・ローのあの力から逃げ切るのは非常に困難だ。あんなの、わけが分からない。

俺はソファーに頭を抱えて座り込んだ。テーブルの上の時計をチラリと見やる。もう島には上陸したのだろうか。宴会から二度の気絶で時間の感覚がすっかり狂ってしまっていた。例え何が起ころうとも、俺はこの機会を逃してはならないのに。あの島から離れれば離れるだけ、たどり着ける確率は低くなる。俺は仕方なく室内を物色することにした。もしかしたら何か、外に通じるダクト的な物が存在しているかもしれない。


トラファルガー・ローの部屋はお世辞にも片付いているとは言い難かった。本やよく分からない器具を掻き分けながら壁や床を調べる。望みのものは見つからなかったが、代わりに気になるものを見つけた。たくさん付箋のつけられた俺の名前が書かれたファイル。そう、俺のカルテである。最初の何枚かはほぼ白紙に"問題なし"の文字だけが書かれていたが、後半数枚に限りビッシリと文字が書かれている。
DYSMNESIA…記憶障害、と書かれているようだ。付箋もこの書類以降にしかない。小さな文字で細かく書きつづられた健康状態や症状を見るとその性格の几帳面さが伺える。これはトラファルガー・ローが書いたものなのだろうか。だとしたら随分…というかレントゲン結果なんていつの間に撮ったんだ?こわ…。

暫く見た後で、ここを出る手がかりとなるようなものはなさそうだ、と最後のページをめくり、手を止めた。カルテの一番最後には拡大された海図が留められていた。なぜカルテに海図が?と疑問符を浮かべた俺は、地図に記された一つの島を見て目を見開く。赤いインクでバツ印が描かれた小さな黒点。これは…もしかして俺が目指している無人島なのではないだろうか。よく見てみるとサイズは違えど以前書庫で見た航路周辺の地形と酷似している。そして、この黒点が目指す場所ならば恐らくこのすぐ側の陸地は、これから上陸する島のはずだ。この海図は何かの役に立つかもしれない。

しかし、どうしてトラファルガー・ローはカルテに海図など挟んだのだろう。もし彼自身も俺がこうなった原因を探ってくれていて、彼もこの島に何か可能性を見出したのだとしたら、無人島くらい連れて行ってくれても良いのではないだろうか。分からない。やはり彼は理解し難い人間である。


最後の海図一枚だけを抜き取り、俺は立ち上がる。ともかくもめぼしい物は他にはなさそうである。扉まで近づいて普段通りにドアノブを捻る。案の定、錠が突っかかって数センチしか開かなかったため、その隙間から廊下の様子を覗き込んだ。隙間からはバンダナの背中が見えて、その用意周到さに辟易とした。しかし、これは逆に好都合だ。自力で抜け出せないのなら、俺に残された術は誰かに頼み込むしかない。


「バンダナ」


俺が名前を呼ぶとバンダナはぎょっと身を竦ませて、動かないまま視線だけこちらに寄越してみせた。「なんだよ」と小さく返された言葉に、懇願するように数センチの隙間から彼を見つめた。


「頼む、外に出してくれ」


俺が頼み込むと、やっぱりそうきたか、と言わんばかりにバンダナが顔をしかめた。やはりトラファルガー・ローに俺を出さないように強く言われているのだろう。しかし、それでもなお俺は言い募った。


「頼む…頼れるのはお前しかいないんだ…。どうしても行かなくちゃいけない場所があるんだ」

「どこなんだよそりゃ…。お前を逃がすと今度は俺がキャプテンにバラされるんだよ」

「俺が……記憶を失った地点の島に行きたいんだ。そこになら何か手がかりがあるかもしれない…。このままじゃ、嫌なんだよ」


じっとバンダナを見つめながら懇々と訴える。バンダナは顔をこちらに向けると真剣な表情で俺を見つめた。


「行ってどうするんだ。もし、何も手がかりがなかったら、お前はどうするつもりなんだ?」


バンダナの鋭い視線が俺を射抜く。俺は沈黙するしかない。それは、最悪の可能性だった。無理やり降りて今更戻ることなんて出来るはずもない。そうなったときのことを考えるのが恐ろしかった。考えておかなければならないことだと自覚している。しかし、この世界で一生生きていく覚悟など、俺にはまだなかった。その図星を突かれた気がした。

バンダナは深く息をつくとおもむろに懐をあさり始めた。そしてそこから鍵を取り出すと、なんの造作も無く扉に掛けられた錠を外した。俺は呆気に取られてバンダナを見上げる。彼は真剣な表情で俺を見つめた。


「帰ってくるんだよ、バカ野郎。そんなん迷うな」


バンダナは呆れたように唇をつり上げる。


「…ありがとう、バンダナ」

俺は小さく呟いてうつむいた。深い感謝と、恐ろしさが胸中を満たしていた。こんなにも、人生で誰かに感謝したことは今までになかった。目の前の男の無償の優しさと、考え得るべき最悪の未来の影に俺は強く瞼を閉じる。瞳を閉じた視界は、ただただ暗いばかりだったけれど。



深海魚は目が見えない


- ナノ -