「…遅い」



僕は自室の机に頬杖をついて不機嫌に呟いた。

遅いというのは謂わずもがな、つい先日報告書を渡した名前のことである。


さっさと記入して持ってくるだけじゃないか。
アレは一応僕に任された仕事なんだぞ。
これで義父にノロマだと思われたらどうしてくれるんだ。

僕はイライラと眉間に皺を寄せる。

すると部屋の隅で本を読んでいた亜矢子が顔をあげて僕を見つめた。



「どうしてそんなに不機嫌なの淳。何かあったの?」



首を傾げてこちらを見やる亜矢子に僕はわざと大きく溜息をついて見せる。

亜矢子はよくこうして僕の部屋に押し掛けて来たり話しかけてきたりするけど、正直煩わしい。
僕にとっては亜矢子よりも神の花嫁であり強い御印を持つ美耶子の方が重要なのだ。



「煩いな。大体お前いつまでここに居るんだよ」



不機嫌にじろりと亜矢子を見つめれば亜矢子は一瞬怯んだようにして身を縮ませた。
しかし元々の矜持の高さもあってか視線はそらさずに何よ、私がここにいちゃいけないの?とつんとして呟いた。

鬱陶しいから言ってるんだ。

僕が再び口を開こうとすると失礼します、という控えめな声と共にスッと僕の部屋の襖が僅かに開かれた。



「お寛ぎ中のところ失礼いたします。淳様にお客様が…」



廊下から使用人が顔を覗かせる。

しかし部屋に居る亜矢子の姿を見たとたん小さく息を飲んで慌ててその場に頭を垂れた。



「し、失礼いたしました!亜矢子様とお話し中とも知らず…!」



亜矢子がその通りだと言わんばかりに顔をしかめて使用人を叱りつけようとする。

しかし僕はそれを制止して急いで退室しようとする使用人を呼び止めた。



「待て、客って誰だ」



僕の言葉に使用人が顔色を窺うように恐る恐るこちらを見つめる。

当然だ。
いつもの僕だったら亜矢子と同じように叱りつけている。

顔色から僕の不機嫌を感じ取ったのか使用人は慌てて口を開いた。



「志村名前という青年です。書類を届けるだけなので、別に呼ばなくても構わないと仰っておりましたが…」



使用人の言葉に僕は勢いよく椅子から立ち上がった。

突然立ち上がった僕に亜矢子と使用人が目を丸くする。
僕はそんな二人には目もくれず部屋を出ようと戸口に鎮座する使用人を押し退けて襖に手をかけた。



「僕が案内する。お前は下がっていいぞ。亜矢子はさっさと自分の部屋に帰れ」



僕の言葉に亜矢子が顔を真っ赤にさせて怒る。

それを無視して玄関へ向かおうとする僕を使用人が真っ青になって引き留めた。



「お待ちください!ご案内はわたくし共が致します!淳様は客間でお待ちくださいませ!」



必死に僕を引き止めようとする使用人に同意して亜矢子がそうよ!と声をあげる。
確かにわざわざ僕が自ら迎えに行くなんて普段から考えたら有り得ないことである。

しかし今は亜矢子から離れられるこのチャンスを生かさなければならない。



「いい。僕が行くっていってるだろ!お前たちは下がってろ!」



淳様!と使用人がなおも僕を呼び止めようとする。

しかし僕はそれを無視して廊下を突き進んだ。


しかし妙だ。
普段は僕に逆らうどころか意見を述べようともしてこない使用人たちがこんなにも引き止めようとするなんて。

僕は訝しげに眉を潜める。

しかしその疑問は玄関に近付くにつれ明らかになった。



「でもほんと、中学の頃以来じゃない名前君!まさかこんなところで会うなんて」



高い、嬉しそうな女の声が玄関の方から聞こえてくる。


ああ、そうか。
さっきの使用人が隠したがっていたのはこれなのだ。

会話の内容からして女は名前の知り合いなのだろう。

普段の僕は客を歓迎することはおろか、自らもてなすなんてことは絶対にしない。
勿論玄関まで出迎えるなんてもっての他だ。
だから恐らく立ち話をしていても見付かることはないと高をくくっていたのだろう。

女は先程の使用人が呼びに来ないのをいいことに声を潜めて得意気に囁いた。



「あんまり大きい声では言えないんだけどね。名前くん、淳様とはあまり関わらない方がいいわ。あの人すっごく我儘だし傲慢だし。小さい頃に来た婿養子だからって傘に着てるのよ。次期当主様だかなんだか知らないけど」



名前の声は聞こえない。

僕はカッとなって二人の居る玄関へ姿を表すと大声で使用人の女を怒鳴り付けた。



「仕事もせずに主人の悪口なんて偉くなったもんだな!お前自分が何言ってるか分かってるんだろうな!!」



突然現れた僕に使用人の女がひっ、と悲鳴を漏らして目を見開いた。



「じ、淳様…!」



女が顔を蒼白にしてわなわなと震える。

漸く自分のしでかしたことを理解したらしい。


でも、もう遅い。

僕は鋭い眼光で女を睨み付ける。
すると女は大変失礼いたしました、と弱々しく呟いて深く平伏すると逃げるように下がっていった。

どのみちあの使用人には厳しい処罰が待っている。


絶対に許しはしない。
よりにもよってこいつの前で、あんなことを言うなんて!

僕は使用人が下がっていった廊下の奥を見つめて視線を落とす。
背中に名前の視線を感じた。


気まずい。

なにも言わない名前にイライラした。


こいつはどう思っただろう。



「…お前もどうせ、同じこと考えてるんだろ」



僕だって馬鹿じゃない。
自分が他人からどう思われているかくらい分かる。

他人にどう思われようが僕には関係ない。
重要なのは力だ。
僕には、全てを従わせるだけの権力がある。

神代だけじゃ終わらない。

美耶子の力を利用すれば、もっと大きなものにだって…。



「…、いや」



名前が小さく呟く。

深く沈んでいた思考を持ち上げて奴を振り向けば名前は伏せていた瞳を上げてまっすぐに僕を見つめた。
不意にかち合った視線に思わず息を飲む。

今まで向けられたことのないような澄んだ眼差しだった。

こいつの視線に、僕は不意に飲み込まれそうになる。



「俺も、同じだから」



呟かれた言葉の意味を理解出来ず僕の思考は再び放心したように沈みこむ。


次に顔を上げたとき、玄関には僕宛の報告書だけが残されていた。











…え?

(独白のような言葉の意味は)


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