最近美耶子の様子がおかしい。

どうやら、使用人たちの目を盗んで屋敷を抜け出しているらしいのだ。



「じゅ、淳様!」



美耶子の見張りを言い付けておいた使用人(名前は忘れた)がひどく狼狽した様子で僕の名を呼ぶ。

それに眉を寄せて振り向けば使用人の女は身を震わせてその場に頭を垂れた。



「も、申し訳ございません!少し目を離したうちに…美耶子様が…!」



その言葉に僕は一層眉を歪ませる。
見張りは役に立たなかったようだ。

苛立たしい思いに目の前にいる使用人を怒鳴り付ける。



「見てろっていっただろ!役に立たないな!…美耶子はどっちの方角へ行ったんだ」



「お、恐らく蛇ノ首谷の方へ…」



狼狽した使用人が弱々しい声で呟く。


美耶子のことだ、あの犬が居なければ動けないし足も早くない。
そう遠くへはいっていないだろう。


僕はサッときびすを返すと玄関の方へ向かう。

使用人は顔を青くして僕のあとを追った。



「お待ちください…どちらへ、」



「決まってるだろ。美耶子を連れ戻しに行くんだ。無能な使用人には任せておけないからな」



さっさと靴を履いて家を出る。

擦れ違う使用人たちは皆頭を垂れて僕を見送った。
その表情には畏れや畏怖の念が浮かんでいる。

僕はふんと鼻を鳴らして蛇ノ首谷の方へ歩き出した。

あっちの方は人も少ないし道も要り組んでいる。
何より足場の悪い山道で美耶子がスタスタ歩けるわけがない。

すぐに追い付けるだろうと踏んで僕は歩き出した。

僕が通りすぎたあとを村人たちが頭を垂れながら見送っていく。


これが、神代の権威だ。

この村にいるものなら誰でも知っている。

誰も逆らえない。
羽生蛇村最大の有力者。

そして僕は、その家の次期当主。
いずれはこの村で一番の、美耶子だって、誰だって逆らえない存在となるのだ。


舗装された道から土の剥き出しになった山道に入る。

行く手を阻むように鬱蒼と生い茂る木々を苛立たしげに払い除けて道というのも憚るような獣道を進んだ。



「ったく…美耶子の奴。どこへ行ったんだ」



チッ、と舌打ちをして呟けば遠くで微かに何か話し声のような音が聞こえた。
ハッと顔をあげて声の聞こえた方へ向かう。

あの声は確かに美耶子だ。

茂みを掻き分けて進めば放置されたプレハブ小屋の裏から聞き慣れた声が耳に入った。



「段差。地面がぬかるんでいる」



「大丈夫だって言ってるだろ!一人でも歩けるっ!」



微かに聞こえてきた会話に思わず眉を寄せる。

誰かと一緒なのか?
声は男のようだが…。

まあどうせ道にでも迷った間抜けな村人だろう。


とにかく美耶子を捕まえなくては、とプレハブ小屋に躍り出る。

すると僕の姿を認めた美耶子がげっ!と声をあげて盛大に顔をしかめた。



「やっと見つけたぞ美耶子!手間をかけさせるな」



「煩い!お前なんてあっちへいけ!」



美耶子がサッと共にいたらしい男の後ろへ隠れる。

僕は美耶子を背にしてぼうっと突っ立っている目の前の男を睨み付けた。
僕の視線に気付いたのか男がこちらを見つめる。

どこか見慣れない顔だった。



「見慣れない奴だな…早くそいつをこっちに寄越せ!」



「……あんたは?」



僕の言葉に男が訝しげに眉を寄せてこちらを見つめる。

はあ?なんだこいつ!
この村に住んでおいて僕のことを知らないのか!?

僕は改めてじろりと男を見つめる。


年の頃は僕と同じくらいか…。

黒い瞳に黒い髪。
端正な面差しは整ってはいるが、表情はあまりなくどこか宮田を彷彿とさせる。

どちらにしろ見覚えのない顔だった。

この村には若者は少ないはずだから、見知らぬ顔など滅多にないはずなのに。



「いいからさっさとそいつを寄越せよ!」



「得体の知れない奴に渡すことはできない」



「はァ!?」



瞬間カッと頭に血が昇る。


こ、こんな侮辱は初めてだ!

ギロリと男を睨み付けて大声で怒鳴り付ける。



「村人の癖によくも僕にそんな口を…ッ!僕はそいつの義兄だ!!」



憤慨する僕を見て男が背中の美耶子に視線を向ける。

僅かに首を傾げて美耶子を見つめると確認するように呟いた。



「本当か?」



男の問い掛けに美耶子が不本意だとでもいうように眉をしかめて僅かに頷く。

するとひとつ頷いた男が漸く背中の美耶子を僕の方へ促した。
男の後ろから顔を出したケルブに従って渋々といった様子で美耶子が僕の前にやって来る。



「いくら昼間だからといっても、ここは猪なんかの野生生物が多いから危険だ。兄だと言うのなら、ちゃんと見ていろ」



こちらをまっすぐに見つめながら言う男にぐっと言葉を詰まらせる。

そのままきびすを返して立ち去ろうとする男の肩を掴んで無理矢理こちらを向かせた。
後ろで美耶子があっ!と声をあげる。

男の瞳が僕を写した。



「お前!何て名前だ!」



命令するように問い掛ければ男の眉が不快そうに潜められる。

そしてパッと僕の腕を払うと無愛想に口を開いた。



「あんたに名乗る名前はない」



あまりの暴言についていけず僕はぽかんとその場に立ち尽くす。


今こいつ僕に何て言った…?
僕は、神代の人間だぞ?

呆然とする僕には目もくれず男はプレハブ小屋の奥の林に消えていく。


その様子を見ておかしそうに笑う美耶子の声だけが森の中に木霊した。









…はあ!?

(なんだあいつ!)


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