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黄金の契約

 月曜放課後、一番に部室入りした監督生は記憶にある限りの般若心経をノートに書いている。南無阿弥陀以外知らないので次は元素周期表だ。水素、ヘリウムと書き連ねている間にガラリとドアが開く。

「ひぇっ、監督生氏……乙」
「いい、い、であ、先……ぱ、い」

 時間が止まる。
 ここに来て監督生は自らの浅はかな思考を呪っていた。先のゴースト事件でのイデアはフォーマルな服を纏い、長く燃える髪を結い整った顔立ちを全面に押し出していた。目に焼き付いているのはその日のプロポーズごっこでの姿である。
 恋心なんてそのほとんどが勘違いなのだ。思い出が美化されているに過ぎないのだ。だから普段のパーカーにボサボサ頭のイデアを見れば正気に戻り目が醒めるだろう。
 そう考えていたが、彼女の心臓は文字通り口から飛び出んばかりに跳ね上がっている。

「き、今日は天気が良いね」
「アハハ……そう、ですね」

 イデアは今にも死にそうな顔で肩を竦めている。どうしよう、自然に挨拶しなくてはいけないのに、初めて会った時と同じかソレ以上に怯えた表情の彼から目が離せない。

「邪魔なのでさっさと中に入っていただけませんか」
「ひっ、アズール氏!」

 固まった時間が動き出したのはアズールの来訪によるものだった。
 薄い背中を小突いたアズールは眼鏡の下で監督生に目配せする。

「お久し振りですね、監督生さん。ゴーストの件以来でしょうか?」
「え? でもモストロで」
「お・久・し・振・り・で・す・ね?」

 話を合わせろと言わんばかりの眼力に「ハイ」と頷く他が無い。
 通例の胡散臭い微笑みを浮かべたアズールは直立不動の二人を差し置いて定位置に腰掛けた。

「しかしリドルさんにも困ったものですね。ハーツラビュルの問題児だけではなく監督生さんまで駆り出して無理矢理泊まり込みの勉強会を開くとは。しかも休日返上で!」
「え?」
「監督生さん……大変でしたよね?」
「あっ、アハハ、ソウナンデスヨー……」

 下手くそな寸劇のような二人の会話であるが、視界の隅のイデアは安心したように息を吐いている。こんな付け焼き刃の嘘、ハーツラビュルに確認を取れば一発でバレてしまう。だがイデアに限って聞き出すどころか話し掛けることすら出来ないだろう。
 アズールの計算高さには肝が冷えるが、結果的に空白の一週間は誤魔化すことが出来た。三人の安堵の息が重なった。

「勉強だったら拙者が教えるのに。リドル氏も世話焼きなものですな」
「あ、あはは……エース達のついで、みたいな……?」

 余程安心したのか扉の前で固まっていたイデアも定位置たる監督生の右隣に座った。心臓が跳ねる。今更だけれどこの人近くないか。あまりに友達がいないせいで他人との距離感がバグっているのか。
 頭が真っ白になる、全身の血の気が引いていく。椅子にへたり込んだ監督生は正気を保つ為に拳に爪を食い込ませた。

「しかし安心しましたわ。拙者のイキったあの服装見てドン引きされて嫌われたものだとばかり思っていたでござる……って、監督生氏、顔真っ青だけど大丈夫? 具合悪いの?」

 先日トレイがそうしたように、イデアの手が額に近付いてくる。ダメだ、今の自分にこの人との物理的な接触は危険過ぎる。
 指先が触れる直前、監督生は慌てて立ち上がり「保健室行ってきます!」と部室を飛び出した。

──これからわたしはどうなってしまうんだろう。

 このままイデアに連絡を寄越さなければまた先週の状況に逆戻り、いいや「やっぱり嫌われた」と勘違いを助長させるに違いない。かと言って今更部室に戻る気にもなれない。
 オンボロ寮に戻った監督生はパソコンを起動して、久々にチャット画面を開いた。新着メッセージを示すバッジが30件を数えている。その全てはイデアからの心配の内容だった。

「風邪の引き始めだったみたいです。ご心配かけてすみません」

 たったそれだけの文章を送るのに三時間もかかってしまった。我ながら重症だ。縮み戻った元の女の姿で監督生は髪をかきむしった。





「k」

 一言ならまだしも一文字だけの返信、あまりに素っ気無いアルファベットに結局監督生は一睡も出来ずにいた。ベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ち、何度もシャワーを浴び、教科書を読んだり部屋の掃除をしたりした。果てに行き着いたのは食事の作り置きだ。
 オンボロ寮のボロ切れのようなカーテンの隙間から朝陽が射し込んでいる。深夜には活発だったゴーストらも寝静まり、静かな談話室に柱時計が七つ鳴った。

「……そろそろグリムを起こして、薬飲む準備しないと」

 唸りながら目を開けたグリムは豪華過ぎる朝食を目掛けて食卓に四つ足で駆ける。味見でお腹をイッパイに膨らした監督生はその姿を眺めながら、さすがに部活には顔を出そうと決意した。

 しかして、意を決して部室の扉を開いた監督生はその場にへたり込んだ。そこにはアズールが一人、最初にここを訪れた時のように本を読みながら足を組んでいるばかりである。

「お疲れ様です。あの、イデア先輩は……」
「ご友人との予定があるだとかで本日はお休みされるようですよ」

 恐らくネットゲームイベントの周回の事だろう。脱力ついでにホッと息を吐いた監督生に、アズールは片手で眼鏡を持ち上げグイと近寄る。

「監督生さん、こちらに座って下さい」
「え?」
「いいから座れと言っているんです」

 その言葉からは静かな怒りを感じる。あのアズールを怒らせるなどこの学園ではご法度だ。
 部活には顔を出したし新メニュー開発にも協力している。一体何が琴線に触れたのか、ビクビクと床に正座する監督生を見下ろしながら、アズールはパタンと本を閉じまたも机に平手を叩き付けた。

「ジェイドから聞きました。先週一週間、あなたは熱心にモストロ・ラウンジのポイントカードを貯めていたそうですね」
「あ……はい。でもまだ五個ぐらい足りなくて」
「水臭いじゃありませんか! 監督生さんと僕は同じボードゲーム部。オーバーブロットの一件ではお世話になりましたし、何より……友人だと思っているのですよ」

 若干頬を赤らめ目を逸らす今のアズールからは先程までの怒りや普段見せる打算は感じられない。アズールにとっての自分はただの部活の後輩なのだと感じていた。だからこそ監督生は、「友人」の言葉を噛み締めた。 

「監督生さんのお願いならばポイントカードなんて無くともお聞きします。と言ってもあなたは特殊な方ですので、必ずしもお力添えが出来るとも約束は出来ませんが……」

 例えば元いた世界に帰りたいとか身長を縮めたいとか、とアズールが苦笑した。
 エースやデュースとはまた毛色の違う男の友情に今度は胸が熱くなってくる。アズールは魔法士としても学生としても極めて優秀だ。そんな彼にならば自分の悩みを打ち明けられる。

「何か悩み事があるんですよね? 監督生さん、僕でよろしければお聞かせください」

 グレートセブンの海の魔女よろしくアズールが慈悲深く監督生を見詰める。
 澄んだ海を思わせる瞳に映る自分の大きくも小さい姿に気恥ずかしさすら感じた。下手な小細工なんかせずに、最初からアズール先輩を頼ればよかったんだ。記憶を消してゴースト事件の直後から始めたい。後悔半分で監督生は「実は」と小声を漏らす。

「実は、恋の悩み……が、ありまして」
「何故それを早く言わないんだ!」
「えっ!?」

 一転声を荒げてアズールが机を叩きながら立ち上がった。何なんだこの人は。先程までのしんみりとした空気はどこへやら、興奮を隠す気もないアズールはニヤニヤと笑いながら監督生に詰め寄った。

「あ、あの、アズール先輩……?」
「そうです、それです! 僕はその相談を心待ちにしていたのです! 黄金の契約書を完成させて早五年、ようやくこの時が来ました! 海の魔女の代名詞たる人魚姫の恋物語! しかしここは生憎男子校、別れた彼女と復縁したい遠距離恋愛が辛い誰でも良いから彼女が欲しいと言った話ならば耳にタコが出来るほど聞いてきたものの、純然たる恋はそうそう起こりません。ああ、僕はついにグレートセブンと同じ偉業を成し遂げるのですね……!」
「おーい、アズール先輩帰ってきてくださーい」

 先の定期テスト、魔法史の範囲はグレートセブンの偉業に関するものだった。アズールの語る通り海の魔女は「人魚姫と王子様の恋を慈悲深い心で成就させた」と叩き込まれている。
 余程嬉しいのだろう、アズールは監督生の呼び掛けにも答えず早速ペンと黄金の契約書の原紙を取り出した。しかし期待させている所を申し訳無いのだが、監督生はこの恋が成就するだなんて少しも思っていない。

「このアズール・アーシェングロット、海の魔女の名誉にかけて必ずや叶えて差し上げます! さあ、詳細を!」
「「あの、絶対無理なんで……僕の話をただ聞いてくれるだけでいいんですけど。マジで無理な話ですから。て言うか対価は……」

 対価、と言うとアズールは冷静になったようで、椅子に座り難しそうな顔をした。
 魔力を持たずこの世界での常識も無い。超高身長は見せかけだけで体力も運動神経も女子並みの監督生が差し出せる物と言えば和食のレシピぐらいであるが、それすらもこの一週間で出し尽くしている。

「ここは伝承通り監督生さんの声……と行きたい所ですが、取り立てて良い声質でもありませんしね。何なら僕の声の方が何倍も魅力的です」
「普通の声で悪かったですね。先輩一言多いんですよ」

 しかし監督生はポイントカードを作った時点で対価を決めていた。
 アレでも無いコレでも無いと頭を悩ますアズールを上から押し付けるように監督生が立ち上がる。監督生しか知らない、厳密に言えば監督生と一匹と教師陣、ゴースト数体しか知らない秘密の情報がある。そしてソレはこの「恋愛相談取引」の核となる情報だ。

「対価は僕の秘密です」
「異世界人の秘密とは面白いですね」
「守秘義務は……」
「当然お守り致します。では早速詳細をお聞きしましょうか」

 ゴクリと生唾を飲み込む。部室に静寂が走った。

「イデア先輩のこと……好きになっちゃいまして、それから」
「そうですか! 監督生さんはイデアさんに恋を……はい? い、今何と?」
「だからイデア先輩に片想いしてるんです! それで実は」
「ああ、何という事でしょう……」

 先程までのハイテンションが嘘のように氷点下まで冷めていく。性的趣向は人それぞれだとかこんなの聞いてないとかアズールが頭を抱え始めた。「だから」「そうじゃなくて」と割って入らんとする監督生の言葉は一切耳に入っていないらしい。
 一頻り唸った後、アズールは飛び切りの作り笑いで言った。

「お、オルカの中には同性愛趣向を持つ者もいるそうです。深海魚も大抵は雌雄胴体ですし、イデアさんに人魚になる変身薬を飲ませればあるいは……」
「話は最後まで聞いて下さい!」

 次の監督生の発言にアズールはもう一度頭を抱えることとなる。

「実は僕……って言うかわたし、女なんです!」
「監督生さんが女性……? 異世界とツイステッドワンダーランドがここまで違」
「いいからとりあえずオンボロ寮まで来て下さい!」

 時刻はいつの間にか十九時半を回っている。今日も朝八時に薬を飲んだのだ、百聞は一件に如かず、思い立った監督生はアズールの腕を引く。
 普段は超長身の自分やリーチ兄弟、長身のイデアに挟まれちびっ子のように感じるアズールだが、前の世界の平均身長を考えると十分なガタイである。それに加え筋力も平均以上に備わっているらしい。
 意気揚々と腕を引いたものの十分重く、ようやく引き連れたオンボロ寮の玄関にて靴を脱ぐ事を促す監督生に、アズールは思い付く限りの「異世界の性差」を唱えた。

「異世界の女性は随分と逞しいのですね」
「違います。あと三分黙ってて下さい」
「お前さん、この坊やには話したのかい?」
「オイ子分! 内緒って約束なんだゾ!」
「色々あったの! 今から大事な話するからグリムとゴースト達は部屋に戻ってて!」

 この時間に監督生が他人を寮に連れ込むのは初めてだ。慌てふためくグリム達の反応を見てようやくアズールの頭も理解に傾き始めたらしい。
 オンボロ寮の古時計はカチリと時を刻み、いよいよ20時の鐘が鳴った。ボーン、ボーン、重厚な音が鳴ること八回目、監督生の身体は見る見る縮み始めた。

「これは……!」

 二メートル以上の超長身、それに見合わぬ軽過ぎる体重。それが魔法が使えない事以上に監督生の特徴であり代名詞だった。
 ソレが今やどうだろうか。身長は数十センチ以上縮み、先刻までピッタリサイズだった制服を肩に被せ、長い髪を耳に掛けた甲高い声の人間が頭を下げている。

「身体が縮……ま、まさか、性別入れ替え薬!? だから執拗に時間を気にしていたのですか!」
「そうなんです。身長に対して体重軽かったのもそのせいで」

 ズレた眼鏡を直しながらアズールが咳払いをする。

「……どうしてああまで長身に設定されていたのですか」
「夢だと思ったからなんとなく……」

 リドルやエペルのような姿を想像して薬を飲んでいたら「小柄な男の娘」としてこの告白もすんなり受け入れられていたかもしれない。普段と一転、監督生を見下ろしながらアズールは困惑した顔を見せた。

「と、とりあえず着替えて来ていただけないでしょうか。目の遣り場に困りますし、僕も少し落ち着きたいので……」

 心なしか赤面した様子のアズールが目を伏せた。
 今更ではあるが、男女間に友情など存在するのだろうか。自分の事を友人と言ってくれたアズールであるが、監督生は彼を「騙していた」のである。もし自分が相手の立場だったとして、信じていた友達から嘘を吐かれていたことを知れば少なからず幻滅する。
 部屋着を纏い監督生は深々と頭を下げた。が、アズールは優しく微笑みを下ろしてくれた。

「今まで黙っていて本当にすみません……」
「確かに驚きましたが、海では雌雄同体の生き物も多いので……。そもそもこんな初歩的な事に気が付かなかった僕にも非はあります。性別は違えど監督生さんには変わりありませんので、安心して下さい」

 今まで散々悪徳業者だとか性悪勝負師だとか思っていたアズールがとても優しく暖かく見える。──のも束の間彼は先の演説よろしく立ち上がった。

「それに僕の目標が達成できるチャンスではありませんか! さあ、イデアさんのハートを射止めるべく早速作戦会議を始めましょう!」
「だから話聞いてくれるだけでいいんですってー!」

 元来女の悩み相談は「聞いて欲しいだけ」と決まっている。監督生もそんな一般論よろしく誰かにこの悩みを共有したかっただけなのだ。
 なのにアズールと来たら恋路を叶えることに躍起になっている。どうせ無理なのに、と監督生はひとりごちた。

「まずは……そうですね。何故どう言ったキッカケで何故イデアさんを好きになったのですか?」
「キッカケはゴースト事件の日で……あの後皆はさっさと帰っちゃったんですけど、ちょっとだけ話したんです。あの日『イデア先輩にプロポーズなんて無理』って言ったじゃないですか?」
「ええ、素晴らしい暴言と褒め言葉でオクタヴィネル寮もしばらく監督生さんの話で持ち切りでしたよ」
「え、最悪。……じゃなくて、イデア先輩がわたしに擬似プロポーズしたんです! 断絶の指輪まで使って! 指輪は男の姿じゃ第一関節も通らなかったんですけど、その時急にドキッとしたっていうか……!」

 思い出しただけで心臓がはち切れんばかりに跳ね上がる。落ち着く為に冷たい緑茶を飲み干した監督生に、アズールは「僕にもお願いします」と笑った。

「つまりイライザ姫からの奪還に必死になっていた件と毎週金曜イグニハイド寮に行っていた件。それと本案件は無関係、と」
「まあ、そうですけど……。好きとか抜きにしてもイデア先輩といたら安心しますし」

 急に異世界に来た監督生は不安だった。グリムやエースにデュースと言った友達は出来たものの、ふと気を抜けば前の世界が気になってしまう。
 そんな中でイデアといる時間だけは、ゲームや漫画と言った、魔法が絡まない娯楽のおかげか余計な事を考えずに自然体で楽しめたのだ。ゲームに勤しむ時間だけは魔法のような不可思議な世界の力から解放される。純粋な実力だけで惨敗を喫する瞬間は、部活しかりイデアとの時間しかり爽やかな気持ちで受け入れられたのだ。

「それで、具体的にはイデアさんのどこが好きなのですか? 容姿、性格、家柄……性格は無いにしても確かに彼は好物件ですが」
「イデア先輩はちゃんと優しい人ですから!」
「恋は呪い、と言う奴でしょうか。実に興味深い! やはり恋愛話は女性から聞くに限りますね!」

 興味本位を隠し切れていないアズールが身を乗り出す。黄金の契約書とは別に取り出したノートに何やらメモが走り書きされているが内容はわからないがきっと碌でも無いことだろう。
 アズールが元々引っ込み思案な蛸ちゃんだったとはフロイドから聞いた話であるが、ここまでデリカシーの無い返答を繰り返すあたり女子とはほとんど話した事が無いように見える。相談相手を間違えたか、これならケイト辺りに持ち掛けた方がよかったかもしれない。

「正直な所、監督生さんがモストロ・ラウンジのポイントカードを集めていると知った時は冷や汗ものでした。元の世界に戻りたい、などと言われてはさすがの僕も叶えようがありませんから」
「まあそうですよね……」
「それでは本題なのですが、監督生さん。イデアさんとどうなりたいのですか?」
「どうって?」
「添い遂げたいのか、この世界での思い出として先の見えないお付き合いをするか、です」
「あ……」

 ツイステッドワンダーランドは本来監督生のいるべき世界では無い。クロウリー学園長がどこまで本気で前の世界に戻る術を探してくれているかは分からないが、いずれここから離れることになるだろう。
 ソレが明日になるか十年後になるか、はたまた百年先の死後の話になるかは分からない。だからこそ彼女はこの恋心について「叶うわけが無い」と言うより「叶ってはいけない」と考えていた。

「……今までのままでいいです。部活で煽り合いして、一週間に一度ゲームしたり漫画読んだりして、イデア先輩が卒業してからも年一回ぐらい会って遊ぶとか。それぐらいの関係でいいんです」

 そもそもあのイデアのことだ。もし告白でもしようものならその後一切会ってくれないだろうし、気まずくなるに違いない。自分の性格にも容姿にも誇れる部分は無いのだ。だったら今のまま、ぬるま湯のようなささやかな幸福に浸るだけで構わない。
 監督生の諦めに似た表情にアズールはやはり優しく微笑んだ。暖かな笑みだった。彼ならばやり方さえ間違えなければ海の魔女以上の慈悲深い魔法士になるだろう。

「わかりました。残念ですが僕は聞き役に徹しましょう。ただ、現状の監督生さんでは『今まで通りの関係』も築けないと思うのですが」
「どういう意味ですか?」
「あのですねえ」

 呆れ顔でアズールが監督生の額を小突く。

「部活には来ない、イデアさんを見るや目も合わせられず逃げてしまう。これのどこが『今まで通り』なのか説明していただけませんか?」
「あ……わたし、イデア先輩とまともに口も聞けないんだった」

 ハッとした監督生の反応に今日一番の溜め息を吐いたアズールは、マジカルペンを片手に監督生の額に人差し指を当てた。目を閉じてください。命令じみた言葉が放たれる。

「これから施すのは平常心を保つ為の魔法です。監督生さん、貴女は今後、イデアさんの前で少しでも緊張した時右手で左耳を触ると途端に冷静になることができます……ほら」

 ボン、とぬるい風が前髪を揺らした。魔法って凄い、精神療法にも使えるのか。
 目を開けた彼女に、アズールは次に品の良い包装が施された小箱を差し出す。ほのかにあのスペシャルドリンクと同じハーブが香った。

「こちらもまた平常心を保つことの出来る魔法薬です。一日に一回、必ず飲んでください」
「え、でも魔法薬の重ね掛けって……」
「ご安心ください。効き目が軽微な分、副作用はありませんので」

 取り急ぎ三日分、と言ったアズールは包みを開けてティーバックを指さした。追加は随時渡すから部活にも顔を出すようにと釘を刺される。

「アズール先輩、ありがとうございます……!」
「可能な限り協力しますので、監督生さんも話を合わせること」
「は、はい……」

 ニヤリといつものように意地悪く微笑んだアズールはオンボロ寮を出て行った。やっぱり先輩は力になる。
 アズールの退室を察したグリムがドタドタと足音を立てながら監督生の胸に飛び込んできた。心なしか普段より毛が逆立っている気がする。

「子分、アズールに元いた世界に帰りたいってお願いしたのか? 俺様居眠りしないでちゃんと授業受けるから帰らないで欲しいんだゾ!」
「違うから大丈夫って。……あれ」

 ここに来て監督生は「前の世界に帰りたい」という気持ちが無くなっていることに気が付いた。事あるごとに「夢なら醒めてくれ」と溜息を吐いていたのも最早懐かしい。
 きっとイデアへの恋心がそうさせるのだと、結論付けて監督生は短く笑った。これは多分初恋だ。右手で左耳を触ると気持ちは確かに落ち着いて、今日は久し振りにぐっすり眠れそうだと感じた。

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