もう一度最初からはじめる | ナノ

とんでもないこと

 あまりに通い詰めるばかりにオクタヴィネル生は長身を見るや問答無用でVIPルームを案内するようになっている。今日も今日とて「可愛いおにゃのこ」「髪がさらさら」「彼シャツ」「監督生氏、可愛いよね」と数々の誉め言葉をきゃーきゃー言いながら反芻する様はさながら女子会だ。
 男二人の不気味な空間に他人が寄り付かないのは幸いだ。クランベリージュースを酒のように飲み干したアズールは目をキラキラと輝かせ、乙女よろしく胸の前で手を組んだ。

「監督生さん、もはやそれは恋人同士では?」
「違いますって! イデア先輩は男友達……というかゲーム仲間って認識なんですし」
「イデアさんの理想の女性は『趣味が合ってシュラウド家を受け入れてくれる人間』です。加えて見た目の趣味にも当て嵌っているのですから、いっそ本当の女子だと公言しても良いと思うのですが」

 要素だけを掻い摘めばアズールの言う通りである。が、ソレを公にすることはつまり今まで騙していたと伝える事と相違ない。
 男の姿の監督生ならばイデアの親友に位置できているだろう。しかし、もしずっと騙していたと知ったらどうだろうか。イデア・シュラウドという人物は人一倍警戒心が強く自己肯定感が低いのだ。嫌われて、いいや最悪の場合心に深い傷を負わせてしまう。
 監督生が二の足を踏む理由も分かっているのだろう、アズールは難しそうな顔で額に手を当てながら「もう一押しですね」と立ち上がった。

「もう一押しって?」
「こちらの話です。監督生さんは黙って僕の助け舟に乗っていただけたら良いので」

 意味ありげなアズールの台詞に頷く他無い。この慈悲深い人魚は一体どんな策謀を発揮してくれるのか。
 つい先刻まで不安に息を詰まらせていた監督生であるが、空中に浮かぶ羊皮紙にメモを走らせるアズールを見て力が抜けた。異世界では前の世界の常識は通用しない。見えない未来も思い出せない過去も一旦忘れて「もうすこし気楽に生きよう」と監督生は笑った。





「さあイデアさん! 罰ゲームを受けていただきますよ!」
「部室掃除当番の押し付け? プログラミングの無償提供? オルトの貸し出しだけは無理だから」
「もっと簡単な罰ゲームですよ。イデアさん、理想のデートプランを教えてください!」
「は、はひっ!? この前から思ってたけどそんなこと聞いて何が面白いの!」

 そしてこれが「助け舟」である。
 本日のゲームは駆け引きが物を言うインディアンポーカーで、学生でありながら一端の商人たるアズールの一人勝ちだった。当然アズールは監督生に様々なサインを送り、イデアの敗北を演出していた。
 ボードゲーム部において罰ゲームは当然の流れになっていた。度重なる敗北にて正常な判断力を欠いたイデアは頭を抱えながら「何個かあるんだけど」と素直に回答する姿勢を見せる。

「まあまずありえない話なんだけどオタクの妄想だから聞き流してよ? キモイとか思わないでよ?」
「前置きは良いのでさっさと答えていただけませんか? 僕も忙しいので」
「最悪……」

 観念した様子のイデアは「オタクの妄想なんだけど」と二度目の前置きして話し始めた。

「前提として拙者と同じ趣味のおにゃのこね。まあいるわけないんですが。ゲームショップとか古本屋巡りして、でもお互い推しが合致するわけじゃないから一旦解散して、一時間後ぐらいに戦利品を語らいたい、っていうか」
「それから?」
「拙者は猫派故、猫カフェにも行きたいですな。当然延長付き! 二人で猫たんと戯れるのって激アツじゃない?」
「そうですか。他には?」
「あとは……外に出るのはそれぐらいで、基本はお家デートかっこわらがよいかな。テーマパークとか意識高い系カフェみたいな人が多い場所はマジで地獄。それだったら家で一緒にレトロゲー嗜む方が良い」
「なるほど。ふざけているのですか?」

 見掛けによらず怪力の持ち主であるアズールの拳が机を大きく叩いた。心なしか木目にヒビが走っている気がする。

「今お話いただいたデートプランは監督生さんとイデアさんの最近の行動ではありませんか!」
「え? た、確かに監督生氏と似たようなことはしておりましたがたまたまそうなっただけと言いますか……」
「いくら現実の女性と接する機会が無かったとは言えここまであからさまだと罰ゲームになりま、せ……?」

 語気が弱まったアズールは激昂から普段の怪しさ輝く商人の顔に変わった。コレはもしかしなくても何かを企んでいる時の顔だ。

「他には無いのですか!」

 自分とイデアの間にこれ以上の思い出は無い。さすがにもう出てくるまい、思っていた監督生はイデアの赤面に呼吸の仕方を忘れてしまった。

「がけものコスプレしてもらう、とか……」
「それは興味深いですねぇ!」

 高鳴る鼓動を隠し切られずアズールが輝く瞳で立ち上がる。一方のイデアも思う所があったらしく、監督生に「あとでちょっといい?」と耳打ちした。嫌な予感と良い予感が相反している。高揚しながらもアズールは目ざとく「ラウンジの様子を見に行かなくては」と部室を後にした。
 監督生を含む三人での敗北と恥ずかしい性癖の暴露を経たイデアにとって、この不自然な状況は大した問題では無いらしい。「あのさ」と声を顰めているものの摺りガラス越しに見えるアズールの頭は目に映っていないようだ。

「監督生氏、性別入れ替え薬って残ってる……? この前アズール氏が膨大な量作ってたんだけど」

 猫カフェの一件で不味い方のハーブティならば受け取ったが「何かに使えそうなので」と性別入れ替え薬は貰っていない。イデアの口振から察するに「わざと大量に」生成してくれたのだろう。
 はい、と頷く監督生にイデアは心底申し訳なさそうな顔をしてまたも土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。

「拙者のコレクション全部渡すから、お願いを聞いてくださいませぬか! こんな事頼めるのは監督生氏ぐらいしかいなくて!」
「イデア先輩にはお世話になってるから何も要りませんけど、どうしたんですか?」
「拙者のためにがけもコスしてクレメンス!」
「……は」

 そう言う事だろうとは予想していた。が、超長身たる今の自分にコスプレを求めるなんてあまりに捩じれている。
 時間が止まったようにぽかんと口を開ける監督生の腕を握り締め、イデアが渾身の声を絞る。熱意だけならばボーテ、100点だ。

「がけもコスだけじゃなくて他にも色々……無論悪用はしませぬ! 性別入れ替え薬の適正者は監督生氏だけ。その上あんな美少女なんですから拙者は……!」

 摺りガラスの向こうにアズールの影が見えた。彼は笑いを堪えるように頭を大きく上下させている。なんてお願いなのだろうか。コスプレなんてハードルが高過ぎる。
 やはり対価を要求すべきだったと後悔するも遅し、監督生は右手で左耳を触りながら「まあいいですけど」と吐き捨てた。

「神! 良き友を持てて幸せですぞ!」
「絶対に撮影厳禁ですから!」

 今までで一番大きな「りょ!」の声に監督生は腹を決めた。がけものライブとミュージックビデオを把握しておかなければならない。これまでのイデアの口振りから察するに、オタクは解釈違いに敏感なのだ。
 頷く超長身に燃える長髪が抱き着いた。右手をホールドされた監督生の胸の中でイデアは「最の高」と頭を撫でる。摺りガラス越にアズールが柄にもなく親指を立てているのが見えるが今は呼吸に忙しくレスポンスをする余裕が無い。立った親指をそのままに鏡舎方面に走るアズールの戯けた仕草も頭に入って来ない。

「そうと決まれば大急ぎで仕入れねば! オンボロ寮直送で注文します故、くれぐれもグリム氏に見られぬよう頼みますぞ! アズール氏にはネトゲイベントの時間だから帰ったって言っといて!」

 とんでもないことになってしまった。
 とんでもないことになってしまった。とんでもない、訳が分からない。状況の理解より抱き締められて頭を撫でられたことが脳の全ての容量を占めている。コスプレ会の日程は知らされていないが、案外行動力のあるイデアのことだから決行は次の金曜夜だろう。
 誰もいなくなった部室で監督生は一人へなへなとその場に座り込んだ。





 グリムはスカラビア寮の宴に見送った。ゴースト達も大人しく、コスプレ会には絶好の金曜日である。
 その中で監督生は不味い方のハーブティを流し込みながら壁のシミを数えていた。部活終わり、いつになくハイテンションなイデアは「オルトのメンテが終わったらすぐに行くから」と明確な来訪時間を告げずに肩を叩いたのである。
 無心で監督生は出汁の仕込みをしている。料理の力は凄まじい、揺らめく炎を見ていると無心になれるのだ。

──ジジッ

「ひぇ」

 古びたチャイムの音に情けない声を出してしまった彼女は恐る恐る玄関扉を開いた。フードを被って縮こまりながらも満面の悪人スマイルを浮かべるイデアが立っている。
 今の監督生は元の女の姿であり、普段とは身長差が逆転している。闇に燃える髪と不健康なまでに白い肌、不気味な口元は不審者そのものだ。
 もしイデアに恋心を抱いていなければすぐにドアを閉めただろう。ただ恋は盲目で、監督生の目にはそんな不審者めいたイデア・シュラウドにさえも魅力を感じてしまう。固まる監督生を前に不審者が吊り目を見開いた。

「監督生氏、そのエプロン姿……」
「えっと、え、あ、週末なので作り置きの下準備してたんです……あ」

 オンボロ寮で監督生は勉強より長い時間を料理や掃除に費やしている。数少ない部屋着を防護する為にもエプロンは必須で、当然そのサイズは小さい。
 何故レディースサイズのエプロンを持っているのかと突っ込まれるに違いない。盲点だ、最悪だ。いよいよバレてしまうだろうと顔を青くする監督生の肩を骨張った手が握り締めた。

「新妻コスとかさすがでござる! 拙者の事『あなた』って呼んで!」
「は、はい!? 呼びませんよ! いいから早く上がってください、キッチン片付けたらすぐ行きますから!」

 新妻だなんてずいぶん勝手なことを言ってくれるものだ。この不審なオタクの頭の中は一体どうなっているのだろう。
 コンロの火を止め作り置きを冷蔵庫にしまい込み、自室に戻るとイデアは届いた服を広げニヤニヤ笑っていた。不審者から変質者に格上げである。

「監督生氏、エプロン脱いじゃったんだ」
「先輩が変なこと言うからです。あ……それより部屋着ありがとうございました」

 本日の部屋着はイデアが発注したものである。性別入れ替え薬を飲んだ時用の部屋着も注文したとメッセージを受け取っていたのだ。「さすがは拙者のセンス、抜群に似合ってますな」と部屋着姿をしげしげと眺めたイデアがにや付き顔を深めた。

「さっさとやっちゃいましょう。がけもコスでしたっけ?」
「その前にまずはナース服から軽いジャブを……いや、最初は定番の猫耳か?」
「猫耳ナースでいいじゃないですか。着替えるので廊下に出てください」

 男のフリをしているとは言えさすがに着替えを見せる訳にはいかない。最低限の倫理観はイデアにもあるらしく素直に部屋を出てくれた。猫耳ナース、一昔前のオタクが好みそうな頭の悪い組み合わせに溜息が出る。
 用意された服はどれもピッタリサイズだった。露骨に丈の短いスカートを着て、やけにリアルな猫耳を付けイデアを呼ぶ。扉を開けるなりイデアは手で口元を隠し変な悲鳴を上げた。

「ひぇっ! かかか監督生氏、似合い過ぎな件について!」
「褒め言葉なのか何なのかわかりませんね」

 普段の彼女であれば絶賛の声に心臓を跳ね上げたのだろうが、如何せん特殊な状況だ。呆れ返るあまり溜息が漏れてしまう。

「次はこの段ボールでいいですか? 着替えるんでさっさと出てってください」
「ちょ、ま、待ってよ! 折角猫耳ナースなんだからそれっぽいこと言って!」
「ソレっぽいこと……? お注射するにゃん?」
「眼福……」

 静かに合掌するイデアを廊下に追いやり次の服に袖を通す。メイド服だろうか、クラシカルな黒のロングスカート、純白色のエプロンを羽織り、しかし背中のリボンがうまく結べない。
 仕方が無いので廊下の不審者を呼び出した。イデアはまた「ぶっふぉ」とオタク特有の不気味な笑い声を漏らし「もう嫌になった?」と遠慮がちに尋ねる。

「段々面白くなってきたから気にしないでください。それよりご主人様、リボンを結んでくださいませ」
「ファーッ! ご主人様とかベタ過ぎて草越えて花なんですが!」
「グリムは今日スカラビアの宴に行ってるんです。飛び入り参加歓迎って言われてるんですけど」
「すすすすまそ! マジで勘弁してください!」

 陽キャカードをチラつかせるとすぐに黙ってくれるのは都合が良い。青白い不審者は高い背を屈めてリボンを手に取った。
 鏡越しのイデアが近い、吐息が掛かるような距離で彼は「似合ってるね」と呟いた。鏡に映るイデアは青白く燃える髪を鬱陶しそうに背に回し、するすると器用にリボンを結んだ。

「ご主人様、お髪を整えましょうか?」
「え、へっ? ななななんで!?」
「今はメイドですから。ベッドに掛けてください」
「……うちの奴らもこれぐらい可愛かったらいいのに」

 靴を揃えない、椅子の上に膝を付く。普段の行儀の悪い態度からは連想も出来ないがイデアは良家出身という噂だ。家に本物のメイドがいるのにわざわざメイド服を用意するとはオタクは業が深い。
 幸いにもこの部屋にはヘアケア用品はいくらでもある。いいや、普通男子高生の部屋には櫛すら無いはずだ。

「一応言っときますけどこのヘアゴムは勉強するとき前髪縛る用ですから!」
「あーわかる。髪邪魔になるんだよね」
「イデア先ぱ……ご主人様の髪、燃えてるのに質量あって不思議ですね」

 ヘアケアなんて絶対にしないタイプだろうに櫛がするする通る。暖かくて不思議な髪質への感想に、鏡の中のイデアは複雑そうな顔をした。

「気持ち悪くないの?」
「気持ち悪いに決まってますよ。後輩に女装コスプレさせるとかキモヲタ乙って感じです」
「そうじゃなくて、ぼ、僕、おにゃのこどころかオルト以外の同年代の人と話したこともほとんどなくて、あっ、別に虐められてたとかじゃないんだけど……だからなんて言うか、寮長権限で監督生氏に負担掛けてた気がして、その、本当にごめん。拙者のわがままばっかり聞いてもらうのも悪いし何かお願いとか無い? テスト対策ノートでもオンボロ寮の設備改善でもお金でも何でもやるから」

 初めて二人で夜通しゲームをした日から何ヵ月も経つ。先輩と後輩という括りがあるだけに「マブダチ」と呼ぶには違和感があるが、それなりの信頼関係は築けているものだと自負していた監督生は、自信の無い声色から繰り出されるいびつな台詞に少なからずショックを受けていた。
 そんな中で「実はわたしは本物の女子なんです」などと伝えてしまえば一体どうなってしまうだろうか。粛々とした絶望の中、監督生は手櫛で炎を整えながら呟いた。

「……対価が欲しいなら誘われた時点で言ってますから。それより罪悪感あるならイデア先輩もメイド服とかナース服着てください! こっちばっかり不公平なんですよ! サイズは魔法で何とかしてくださいよね」
「そうだよね、それぐらいしないと釣り合わないよね。……だが断る!」
「拒否権はありませんー。僕は廊下待機してますからさっさと着替えてください」

 イデアが鏡越しでなくにっこり笑う。
 こんなに自然な笑顔は初めて見たから監督生は慌てて右手で左耳を触った。

「その前にさ、監督生氏。僕、お腹空いたんだけど。さっきまで何か作ってたんでしょ? メイドさんなんだから手料理振舞ってよ」
「フルコースじゃないけど大丈夫ですか?」
「可愛いメイドさんの手料理なら消し炭でも歓迎な件について。ねえ、だめ?」

 背丈と顔立ちに似合わずイデアが小首を傾げながら小さく問い掛けた。ダメなわけが無い。
 作り置きならいくらでもある。先日置いて行ってもらったゲーム機を引っ張り出し「少々お待ちください」と投げ捨て監督生はキッチンに急いだ。男の心を掴むにはまず胃袋の掌握が重要だ。クラシカルなメイド服はしかし調理に不都合無く、監督生はこれまでの人生史上最も速く最も精密に料理に取り掛かる。
 味噌汁の入った片手鍋を弱火に置いて、監督生は自室に戻った。ドアを二回ノックするやロールプレイ好きのイデアが「入っていいよ」と返す。

「ご主人様、お夕食の用意ができました。お越しくださいませ」
「ほ、ほんとに作ってくれたんだ……」
「有り合わせだから美味しくなくても文句言わないでくださいよね」

 待ち時間にゲームをしていたのだろう。コントローラーを投げたイデアが先日よろしく監督生の前を歩く。
 食卓にて味噌汁を二人分お椀によそった監督生は緊張に滲む汗を隠すように右手で左耳を触った。こんな、前の世界でありふれた家庭料理なんかが口に合うのだろうか。貧乏臭いと笑われやしないだろうか。

「何回も言いますけど、ただの家庭料理だし作り置きばっかりなんでお口に合わなかったら残してくださいね!」
「はぇー、監督生氏ってほんとに料理できたんだ」

 食卓を眺めながらイデアは感嘆の息を洩らした。とりあえず第一関門は突破である。いただきます、と合掌する監督生を横目にイデアは一向に食事に箸を付けない。
 やはりこんな物食べるに値しないのだ。茶色の多い食卓を前に監督生は「すみません」と頭を下げる。

「購買行ってきます! ピザとか食べます?」
「そ、そうじゃなくて、この棒……どうやって使えばいいの?」
「……あ」

 ツイステッドワンダーランドは在校生一同の名前が示す通りに西洋の文化を持っているのだろう。ならば当然箸で食事する文化がある筈も無い。しかしナイフとフォークは錆び付いていて使えそうにない。
 相手が人間だからと当然のように箸を用意してしまっていた。両手で箸を握るイデアに「グーで掴んで突き刺していいですよ」と言うと、彼は恐る恐る生姜焼きを口にした。不味くは無いだろうか、緊張の面持ちの監督生は次の言葉に脱力した。

「美味しい! 監督生氏天才では?」
「おかわりもありますから言ってくださいね。あ、苦手なのは残しても大丈夫ですよ」

 少食だと思っていたイデアは全部の料理を汁まで啜り、「海藻のスープってもう無いの?」とおかわりまで強請ってくれた。味噌汁が気に入ったのだろう、山盛りの片手鍋が見る見る目減りしていく。

「これ凄いね。食堂の料理と違って胃もたれしないし、棒で突き刺すのも楽しいから駄菓子みたいにいつまででも食べられそう。……片付けは面倒だろうけど」
「モストロ・ラウンジの裏メニューで出してるみたいだから今度行ってみてくださいよ。フロイド先輩の覚えが早くって、何ならわたしが作るより美味しいので」
「システムメンテ以外であそこに行くのはちょっと……。拙者には監督生氏がいるし」

 空気はそのままなのに監督生だけが変わっていく。

「監督生氏がお嫁さんだったら毎日これ食べ放題なんでしょ? 君と結婚するおにゃのこは幸せなんでしょうな」
「……こんなの前の世界じゃ誰でもできますよ」

 この他意の無い言葉を飲み込めないのは、彼女がイデアを騙し続けている所為だ。イデアは監督生が男だと信じている。
 辛気臭い空気を醸し出そうものならイデアは二度とここには来てくれないだろう。せめてこの世界に留まれる間は大好きな人との時間を大切にしたい。
 自らの頬を叩きおかわりのお椀を置いた。少しの疑問も持たないイデアは手許に残るゴマを器用に箸を使って口に運んでいく。

「こうでいいんだっけ? すぐにハシの使い方マスターできちゃうとか拙者天才?」
「手先器用なんですね。前の世界じゃ何年も掛かって習得する技術ですよ」
「あ、それ美味しかったやつ! ちょうだ――」
「駄目です!」

 監督生が摘まんだお浸しを箸で掴もうとしたイデアの手を、監督生はピシャリと叩き落とした。恋心と天秤にかけるまでも無い、身体に根付いた禁忌がそうさせたのである。
 ひっ、と、聞き慣れた小さな悲鳴がオンボロ寮に走った。簡単に涙目になる長身のイデアを前にようやく監督生は状況を理解して顔を青くする。

「す、すみません……! 箸渡しって前の世界じゃ一番やっちゃダメなことで、あの」
「橋渡し?」
「……こっちでは分かりませんけど、わたしの前いた国は火葬文化だったんです。お骨は親族とか、馴染みのあった人でお箸伝いに骨壺にいれてました。だから縁起が悪いことで、絶対やっちゃダメって」
「そっか。……どこの世界でも橋渡しってよくないイメージあるんだね」

 縁起と言う概念を異世界の横文字の男性がどこまで理解しているか分からない。
 ただ死にまつわるものだとは理解したと思しきイデアは気まずそうに箸を下ろした。おおよそ晩餐に似つかわしくない静寂が走る。永遠とも取れるソノ静寂を打ち破るのは自分でなくてはならない。
 淀んだ空気を払拭するように監督生は立ち上がった。

「それよ、り……! 次はイデア先輩のターンなんですよ!」
「わ、忘れてなかったんです、な……

 人一倍他人の目に敏感なイデアには監督生のこの言動の裏が分かっていたのだろう。二つの作り笑いが調和する。今日の本題はあくまで「コスプレ会」なのだ。


 気まずい空気はパツンパツンのメイド服を着たイデアの所為で弾け飛んだ。イデア先輩、似合うけど似合わないにも程がある。肩甲骨より下で止まるファスナーを前に笑いが止まらない。

「あーもう超面白いです! 顔が良いからって女装させても似合うとは限らないんですね! ある意味似合ってるけど!」
「や、やめてよ! 監督生氏だって性別入れ替え薬なかったらもっと酷いだろ!」
「アハハ、ハハ……はァ、やば、息できない! イデア先輩顔と身体付き釣り合ってませんって!」
「可愛いおにゃのこになれたからってマウント取るのやめてって!」

 ほぼ上裸のようなイデアを前に、監督生は呼吸の仕方を忘れた人魚のように笑った。今の自分は恋する乙女では無く失態をからかうクラスメイトだ。
 不思議とその関係が心地好く流れに身を任せてしまう。結局監督生はあの日のエースよろしく笑い過ぎて酸欠になりかけ、あまりの大笑いに青い唇を尖らせたイデアは「もう帰る!」とパーカーを羽織り立ち上がった。

「すみませんって! 今日はもうゲームやりましょう!」
「帰る」
「怒んないでくださいよー」
「じゃなくてガチで。監督生氏、今日はありがとね」
「え? まだ二十三時ですよ? 日付も変わってないのに」

 二十三時に「まだ」と付けるのもオカシな話であるが、二人の金曜夜は翌七時まで続くのが定石だ。キョトンとする監督生を前にイデアが気まずそうに笑い掛けた。

「い、今の監督生氏は一応女子ですし……泊まるなんて気まずいと言いますか」
「この前は朝方までゲームしてたじゃないですか」
「と、とにかく帰るから! 来週はオルトも一緒に普通にゲームして遊ぼうよ。もう変なこと言わない、から」

 変なことと言えばどの台詞だろうか。アップダウンの激しい一夜を思い出し首を傾げる。
 一方でイデアは丸まった背中を伸ばした。パキパキと背骨が鳴る音がする。元の姿で見るとイデアはやはり背が高く、普段とは印象が大きく異なるものだ。高身長イケメンの癖におどおどしている様が憎らしくさえ思える。

「暗いですけど鏡舎まで一人で行けますか? お見送りしますけど」
「拙者を誰だとお思いで? この時間だったら誰もいないだろうし、髪が燃えてる分暗い夜道も平気ですぞ」
「またゴーストに連れ去られるかも」
「嫌な事思い出させないでよ……。で、でも、そうなったらまた助けてくれる?」

 183cmの長身が心許なく監督生の顔を覗き込んだ。まるで可憐な乙女の如き仕草に思わず胸が跳ねる。

「何回でも助けますって。そしたらおやすみなさい」
「フヒヒッ、おやすみ。僕のメイドさん」

 監督生の頭を撫でて、イデアがバタリとオンボロ寮の扉を閉めた。こんなキザな事が出来る人間がどうしてあんなに自信を失っているのか。今日は刺激が過ぎた一日だった。疲れがどっと湧いてくる。
 化粧を落とした監督生はイデアがわざわざ用意してくれた小さなサイズの部屋着に袖を通した。青と黒のボーダー、イデアの普段着と同じ柄だ。
 そこに恐らく意味は無いだろう。けれど、無意識下でも自分と同じ服を着せようと発注してくれたその事実だけが嬉しい。

「……わたし、どうしたいんだろう」

 イデアの事が好きで、そのイデアを騙している。その後ろめたさは食事前に確かに感じたはずだ。それなのに、衣装を着た時や料理を振舞った時の笑顔を思い出すと「もしかしたら女子だと明かせば喜んでくれるのではないか」という希望が生まれてしまう。
 天才を前にせずとももとより頭は良い方では無いと思う。だからこそ自分は、この世界に来てからは意図して難しい事は考えないようにしていた。
 
「あ、そう言えばがけものコスプレしてない……折角ライブ映像見て勉強したのに」

 がけものヒット曲を口ずさみながら監督生は天井を仰いだ。一人で思案しても何の答えも見当たらない。またアズールに相談しようと結論付けて、監督生は部屋の電気を消した。

×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -