八回八回、推察も行き詰まったわたしは仕事を抜け出森を散歩している。ここには魔獣が出るので立ち入り禁止とされているが、わたしは生まれてこの方「獣」を見たことが無い。
神その他宗教にまつわる文献を漁る傍ら知ったのだが、神話や逸話の多くは後世に危険を知らせるための作り話らしい。「夜爪を切ると親の死に目に会えない」とは暗い中で爪を切ると指を怪我しかねないという教え、「靴下を履いて寝るのは死装束と同じだから縁起が悪い」とは足先への締め付けが血行を損ねて健康上よろしくないと言う話である(ついでに冷え性が悪化するらしい)。
つまりこの森に入るなと言うのも、常時薄暗いせいで道に迷いかねないという警鐘だ。
しかしわたしにはソレ以上の先人の知恵がある。アリアドネの糸だ。まあ当然そんなに大きな毛玉を準備することもできなかったので、ヘンゼルとグレーテルよろしく飴玉(当然剥き身だともったいないので包装がついたままだ)を落としながら歩いていた。
「……人?」
数十歩刻みに飴玉を巻くこと暫く、後方に確かに何かの気配を感じた。気配は次第に近付いてくる。え、もしかして魔獣って実在するの。
恐る恐る振り向いたわたしは全身の力を削がれることになる。そこには想像だにしない生き物がいた。
「猫ちゃんが二足歩行してる!」
「猫とはなんだ! 俺は獣人だ」
「猫ちゃんがしゃべったああ!」
片目を隠した猫ちゃんが器用に服を着て二本足で歩いていた。
それだけに留まらず人の言葉を話している。もしかしてわたしの頭がオカシクなってしまったんだろうか、こんなどこからどう見てもただの大きめの猫が、人間みたいなことをするわけがない。
「ごめんね、珍しい猫ちゃん。連れて帰りたいけどハザマさんアレルギーだから無理なんだ」
「だから獣人だと言っているだろう!」
「獣人って人間の顔で耳と尻尾だけ獣っぽいはずなんだけど。マコトとか猫のお姉さんみたいな」
「それは亜人種だ。まったく、俺のことを忘れたのか?」
やはり聞き間違えや見間違えその他の類では無いらしい。猫ちゃんは地べたにあぐらをかくように座り込んだ。さすが猫だけあって足が短い。かわいい。
「忘れたっていうか初めて見るけど。猫ちゃん、お名前は?」
「獣兵衛だ。ミツヨシと言った方がしっくり来るか?」
「ミーちゃん! 可愛いでちゅねー」
「……ナマエ、本当に覚えていないのか?」
「こんなん一度見たら忘れるわけありまへんがな」
可愛さの塊のような猫ちゃんは小首を傾げている。毛玉感のある生き物は何をしても愛らしい、お耳の形をしたお洋服とかご立派な眼帯とか、手元まで覆ったお召し物とか。つぶさに観察していて絶望的な気分になった。あろうことかミーちゃんはわたしが落として来たアリアドネを拾っていたらしく、袖口に大量の飴玉を抱えている。
「わたしの目印が……どうしよう、帰れん」
「す、すまない! マタタビキャンディには目が無くてな……帰路なら俺が案内してやるから安心しろ!」
「ならいいけど、お詫びに撫でさせてよ」
「コラ、顎の下はやめ……っ!」
ふわふわの毛並みを触っても当然わたしは何も思い出せない。ミーちゃんの口ぶりから察するに、この仔も最近の怒涛の人違いよろしくわたしを誰かと勘違いしているのだろう。
トリなんとかって小さい女の子、レイチェルさんとヴァルケンハインさん、後者の二人は前からたまにお会いしていたが、このところ増えた一方的な知人にわたしは辟易している。
「ヴァルケンハインからお前のことを耳にして探していたんだ。ナマエ、本当に忘れてしまったのか?」
「ごめんね、忘れるとかそんなんじゃなくて、ミーちゃんが知ってるわたしって同じ顔した別人なんだと思うよ」
「ならばお前は、ユウキ=テルミを知っているか?」
「え? もしかしてミーちゃんって神の御使!?」
ならば話は変わってくる。ミーちゃんがユウキ神の御使であるならば、女の子も吸血鬼もジェントルマンも天使ということになる。そう言えばあの女の子、背中に羽見たいのが生えていた気がするしレイチェルさんはふわふわ空を飛ぶ。
という具合にわたしは合点が行ったのに、一方のミーちゃんは瞳孔をまん丸に開いて毛を逆立てた。
「ナマエが、神……だと?」
「違うよ、神様はユウキさんでわたしは敬虔な信徒! いつか聖書に名を刻むことが野望なのだ!」
「これは……人違いより厄介なことになったな」
どういう意味なのかは気になるが、多分聞いてもはぐらかされるんだろうからあまり関わらないようにしよう。
「ところで八回とはどう言う意味だ」
「この前レリウスさんから言われたの。人生は八回繰り返される、その意味を考えてみろって。信じらんないぐらい長いってことしかわかんないんだけど、ミーちゃんはわかる?」
「……なるほどな。ナマエ、俺から答えを話すわけにはいかんがヒントをやろう」
アリアドネもといマタタビキャンディを頬張りながら、ミーちゃんが低い声で言った。
「8という数字を横に倒してみろ。テルミの野郎は恐らくそれに近い回数を費やしていた」
「費やすって何に?」
「俺が言えるのはここまでだ」
8の横倒しといえば無限を表す記号だ。それだけ繰り返して何かを成し遂げようとする、すなわち神は前世の記憶を持っている。わたしは持っていない。
レリウスさんってまさか、わたしと神は格が違うってことが言いたかったんだろうか。ますます訳が分からなくてお腹が空いてきた。
「レイチェルさんもヴァルケンハインさんもミーちゃんもどうして勿体ぶるの? 何か知ってるならパーッと教えてくれたらいいのに」
「アイツは最低で最悪なことをしでかした。しかしナマエについては……俺らの責任もあるので無碍にはできん」
「だから答えになってないって!」
飴は噛んで食べる派なのか、ミーちゃんが二つ目のキャンディの包装を開く。試しにストックしていた分を口に放り込んでみたが、若干スパイシーな香りが鼻を抜けるばかりであまり美味しいとは思えない。
「帰りはここをまっすぐ進んで、大きな果実の成った木を右に曲がる。暫く歩くと墓標が見えるのでそれをさらに右に進んで倒木をくぐり斜めに進んだところだ。一人で帰れるな?」
「が、んばり、ます」
「俺たちはお前にきちんと謝りたいだけだったのだが……それは思い出した時にするべきだな」
ミーちゃんが何を言っているかよく分からないが、ええっと、何だったか。まっすぐ行って果物の木を右に曲がってあるいてたらなんか倒木? があってくぐって左? 煩わしいぞ。
「あっ、そうだ。転移の術式使えば一発じゃん! ミーちゃんありがとうね!」
「待て、転移だと!?」
「そしたらまたねー」
「ナマエ、お前は──」
森の入り口を思い浮かべながら「転移」と唱える。使うと疲れて小一時間動けなくなるから許可無く使うなってハザマさんに釘を刺されているんだよな。空間を移動する寸前にミーちゃんは何かを言い掛けていたが、まあ次会った時に確認すれば良いだろう。
ところで移動先の森の入り口には今まで見たどの顔よりも怖い表情をしたハザマさんが仁王立ちしていた。ヤバイ、怒られる。
「あっ、あの、考え事は静かな場所がいいかなーって思って! ちゃんとアリアドネの飴玉も用意してたから帰って来られたしミーちゃん以外の獣見てませんしセーフなはずです!」
「ミーちゃん?」
「それに魔獣とかいませんでしたよ!」
「あのですねえ、ミョウジが魔獣に遭遇する訳がありませんって」
魔獣に会わないってどういうことだろう。しかしここで無粋に質問でもしようものならハザマさんの剣幕を食らうに違いない。
黙って頭を下げるわたしに彼は非情な言葉を投げた。
「ミョウジ少尉、不要な心配をさせた罰と転移を勝手に使用した罰として減給半年」
「すみませんってー!」
怒ったままのハザマさんが動けないわたしを抱き上げた。まったくこの人っていつまで経っても過保護だから困っちゃうな。
運ばれながら無限の回数を考えていた。輪廻転生があったとして無限回って、何億年何兆年かかるんだろう。一週間の仕事ですら長く感じるわたしには到底考えられない。
もしかしたら神様にとっては無限も一瞬なのかもしれない。だったらわたしと話した時間なんてミジンコ以下の時間ではなかろうか。
「ハザマさん、わたしミジンコよりミトコンドリアがいいです……」
「これ以上訳の分からない話をするならば減給ではなく降格処分にしますよ」
「絶対嫌です! ごめんなさい!」