「失礼します」
「ハザマさん……! どうかしましたか」
「異動と伺ったので少し。たしかこの部屋に忘れ物をした気がしまして」
「何もありませんけど……」
「そうでしたか。私の思い過ごしですね」
「……帰らないんですか?」
「上下関係を覚えたのならば紅茶でも出していただけませんかね」
「あっ……すみません、すぐ用意します」
子供の遊びだ。こんなもの。最後までわたしは大人になんてなれないまま全部終わってしまう。心臓が跳ねるのも命の無駄遣いだ。紅茶をいれる手が震えるのだって泣きそうになるのだって全部全部無駄なんだ。
「どうぞ、市販のですけど」
「お茶汲みからやり直した方が得策ですね。ああ、火、いただけますか」
「吸われるんですね」
ハザマさんが咥えたのはわたしと同じ銘柄の煙草だった。この人はわたしをからかっているんだろうか。いや、からかったところで何も出てこないのはハザマさん自身わかっているはずだ。
マッチを擦って失礼のないように手を添える。ジリジリと葉が燃える音が響くほどこの部屋は静かだ。
「すぐに荷物を纏めないといけないから、今日は眠れませんよ」
「それは残念です。私の唯一のサボり場所だったんですがね」
「資料室ならいくらでもありますよ」
「こっそり喫煙出来る監視の目が無い部屋はここだけですよ」
「あ、禁煙でしたっけ。皆吸ってますけどね」
「共犯ということで上には黙っておきますよ」
昨日今日手を出したかのように、ふかしただけの白い煙が飛んでゆく。わたしはこの人のどこが好きなのだろうか、ずっと考えていた問題が煙と一緒に溶けていく。
「何の用ですか」
「昔の同僚、まあ、恋人が異形の物になっても助け出す為に下に行っている元科学者がいるそうです。もう手遅れだというのにずっとね。どう思いますか?」
「まあ、わからなくもないと思いますけど……」
「私は馬鹿馬鹿しい話だと感じました。そんなことをしても時間の無駄だ。愛情というのは生きるのに必要ないものだと感じましたよ」
「ハザマさんはそういう人ですもんね」
何がハザマさんは、だ。わたしは彼のことを何も知らない。本名も、何を信条としているのかも、何一つ知らないままただ漠然と追い掛けている。そういうのを恋というのだからタチが悪いと思いながらも今は頭の中が真っ白だ
「そんなこと話に来たんですか? 忙しいので」
「いえ、ミョウジ中……ナマエなら、私がそうなったとして探し出してくれますか?」
心臓が止まるなら今だ。今のわたしに失くすものは一つでもあるだろうか。異動となればもうハザマさんと会うこともないのだ。一言、素直に話すだけでいいのに喉元は震えるだけで何も出てこない。
火を消してハザマさんが立ち上がる。心臓なんて止めてしまえ。
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