ナマエ=ミョウジは利用価値のない人間だ。さして戦闘能力に秀でていたり、術式適正値が図抜けているわけでもない。アークエネミーの所持者でもないし、そもそも蒼が何かもわかっていない凡庸そのものなのである。そんな平凡な、ただ少し生意気な女にここまで執心することは想定外だった。
「失礼します」
ノック無しで部屋に入ると、煙たさに喉がやられそうになった。しかしここで咳払いをするのは彼女をあまりに傷付けるのではないかと唾を飲み込む。こんなところに缶詰にされて、ストレスの捌け口なんてこれぐらいしか無いのだろう。口ではいくらでも嫌味は言えるが、どうしてか態度に出せない
「あ……あア、ハザマさん」
彼女は目を泳がせて、私の顔は決して捉えずに喋舌る。これだ。この反応こそ自分が歓迎されていないことを象徴するのだ。
「食事の時間でしたっけ」
「いえ、暇でしてね。食事なら昨夜摂ったでしょうに」
「消化が早くてお腹空いちゃうんです。ホラ、頭使うでしょう」
一言一言が私の縺れを解くようだった。彼女の声も、台詞も、特筆するほどのものではない。それなのに何故だと自問自答するのはとうの昔にやめたことで、私は彼女と会話し、彼女の記憶にどんな形でもいいから留まるべく思い浮かんだ台詞を噛み砕くのだ。
「私にはミョウジ中尉が資料を読んでいるようには見えませんがね」
「目を通すだけじゃありませんよ」
「ご丁寧に付箋までつけてラインも引いて、でもそれって必要なんですかねェ? 勉強しているフリが板についていますね」
机に座るこの行儀の悪い動作でさえ少しでも恰好悪く映らないように気を遣う。これではまるで思春期だ。初恋だ。なんと馬鹿馬鹿しく無駄なことだろうか。
ふと目に付いた灰皿には昨日と変わらない量の吸殻しか残っていなかった。なるほど、通気性が悪いから紫煙が立ち込めたまま逃げられないのか。
そうなると私に会うこと自体がストレスの要因になっているように、彼女はマッチを擦った。近寄ると仄かに、不愉快な紫煙以外の甘そうな香りがした。私はこれを彼女の匂いだと認識している。
「煙草、可愛いお顔に似合いませんよ」
「それって童顔って意味ですか」
渾身の口説き文句もあしらわれる。もっと最初から、丁寧に交流していればよかった。何度後悔しても今更彼女が自分に靡くことはないのだ。キサラギ少佐と話している姿を一度見たことがあるが、その表情はひどくあどけなく、心なしか紅潮しているようにも見えた(それが自身の感情を知るきっかけになったのは言うまでもない)。
「九十分経ったら起こしてください」
ソファに腰掛けて靴を脱ぐ。自分に許された贅沢とは、彼女と同じ空間で無意味な時間をひたすら無意味なままやり過ごすことだけなのだ。
「自分で勝手に起きるくせに」
「起こしてくださるのかが不安なだけですよ」
「確かに、わたしなら起こさないかもしれませんね」
「そうだ、キサラギ少佐ですが、女性には興味が無いようですよ」
「えっ!」
どうせまた生返事を喰らうだけだという予想に反して、彼女は火をつけた煙草を落としてまで立ち上がった。興味を持たれるのは初めてのことだが、しかし、こんな話題持ち掛けなければよかったと後悔に苛まれる。
「残念でしたね。キサラギ少佐と話す機会がありましたが、貴女の名前なんて出て来ませんでしたよ」
「それより、女性に興味がないって……」
「英雄のことは凡人にはまったく謎なものです。仕事さえ順調であれば問題ないとお考えなのでしょうね」
実際キサラギ少佐とそのような話をしたことは無いが、何かにつけて兄を追い掛けているのだから間違えはないだろう。
彼女は取り乱したことを戒めるように咳払いをして座り込み、深く煙を吸った。
「う、げほっ」
「やっぱり煙草、お辞めになった方がよろしいのでは? 子供が背伸びしているようにしか見えませんよ」
「そ、それより……、ハザマさんはどうなんですか?」
「私、ですか?」
立ち上がり、むせる彼女の背中を叩く自分の手が止まる。何と答えれば正解なのかわからない問い掛けを今まで散々蹴飛ばしていた、経験値の無い自分はどうすればいいのだろうか。ここで君を愛しているだとか陳腐な台詞を吐けば、煙たがられて、この九十分もなくなってしまいそうな気がした。出来れば核心に迫る話などしたくなかったのだ。いつまでもこの距離を保っていたかった。
「恋慕なんて抱くだけ無駄ですよ。どうせ私は愛されなくて、その人の眼中にも入らない。なんとかしようと足掻いても悪目立ちをするだけですから、出来れば今後も誰も愛さず生きたいものです」
「そうですか……、わたしと一緒ですね。あ、寝なくていいんですか? 目覚ましならセット出来ますから。わたしもう大丈夫ですから」
私とも一緒ですね、出かけた言葉を飲み込む。むせ返り過ぎて涙を流す彼女に、何故最初から愛しさを抱かなかったのかと落胆だけが募る。
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