暗転。
「お久しぶりですね」
終戦の翌日は生憎ジットリと雨が降っていたのに気持だけは爽やかだ。祝賀に参加して普段よりは足取り軽くドアーを開けた執務室の先で、わたしの席にわたし以外の人間が我が物顔で腰掛けている。
「ハザマ……さん?」
毒毒しい蛍光グリーンの髪とイエローの目玉が呆れたように主張している。細く歩み寄るわたしを彼は持ち前の長身で出迎えた。
痩せましたか、戯けた声色が神経を逆撫でしていく。あの日「消えた」筈のハザマ大尉はソンナ事が丸切り無かったように報告書の新しいページを捲っていた。
「知っている人間が消えたご感想はいかがですか?」
「……病院行かないと、また変なの見えるようになっちゃった」
「待ってください! 実物ですから!」
わたしの腕をハザマさんが強く攫った。実体があると、主張する彼の爪が隊服越しに深く喰い込んでいる。丁寧に切り揃えて磨かれた指先は記憶している彼の物と全く相違が無い。
ハザマさんがいる。
体温が急に上がったかと思えば次の瞬間には氷よりも冷えていた。コツコツと、無機質なノックにドアーが開く。入室した新人はハザマさんの名前を如何にも日常的に呼んで、要件を伝えていた。固まるわたしを傍目に彼らは当然のように見知らない遣り取りをしている。第七機関がどうとか、諸用を終えた衛士が深深と頭を下げて出て行った。ソレはハザマさんの実在を裏付けるには充分で、ガチャリと、重い音を背に彼がわたしの目線に合わせるべく膝を曲げる。
「これで信じて頂けたでしょうか?」
「……なんで」
今に至るまでに何度彼を回想して何度再会を祈った事だろうか。ハザマさんが、言う所の「わたしを殺した」数には到底及ばないことを思い出すと視界が霞んで来た。どうしてハザマさんが「わたし」を殺して来たのかを知っている。なのにいやに説明口調な彼は下手くそに微笑いながらまたも役者さながら腕を広げた。
「驚かせてしまって申し訳御座いません。ただこれが最後の事象でしたから、どうしても信じて頂きたかったのです」
「最後って、あの」
「いやあ、しかしあれ程の大人数の記憶を食べてしまうのは骨が折れましたよ」
こちらに来いと、言わんばかりの手招きに素直に応じた。身長の高い彼を明白に見下ろすのはコレが初めてである。昨日まではわたしが踏ん反り返っていた猫足の椅子に、ハザマさんが深く腰掛けていた。ハットは矢張り転げ落ちそうに心許無く、ソレを気にするわたしの為なのか彼は目深く被り直した。
記憶を食べるとか、最後の事象とか、どうあっても知的好奇心を擽る文言が頭に入っては抜けていく。ソレ以上にこの人がこうして目の前にいて、その上わたし以外の人間にも認知されている事実がひたすらに安心するのだ。ハザマさんの腕がわたしの頭に伸びて、不器用に髪を撫ぜる。
「私が貴女を殺す動機についてお話ししていませんでしたね」
出来損ないの真顔が目を見開いた。鋭い筈の視線すら安寧を産んでいる事に彼は果たして気が付いているのだろうか。若しコレが彼が「消える」以前のわたしならば必死で隠していただろう。けれど今となっては少しも誤魔化す気になれなかった。ハザマさんが居ない間に思い知らされてしまったのだ。わたしはこの人のことが、そうだ。
「要らない話で少しずつ信用を得ようと努力していたのです。いくら私が真剣に貴女に告げても冗談だと決め付けて、耳を傾けて下さらないので。あまり気が長い方では無いので、否定されるとカッとなって首を裂いたり腹を掻き切ったりしてしまいまして」
「なんだ、そんな、ことで……」
首筋を指先が伝う。
「満を辞して、とでも言いますか。改めてお話しさせて頂きます」
脇腹を掌がなぞる。
ほんの目と鼻の先に居る彼が、諦め切ったような視線をわたしに送った。コレから言われるセリフならば解り切っていた。ただし並行世界の記憶が呼び起こされたとか、そう言ったファンタジーでは無く単なる人生経験だ。処女でも無いわたしはこの場所を充たす特異な空気の理由を知っている。
一秒かソレ以下の尺の沈黙が、一生以上に長く思えた。回りくどいハザマさんはまた冗長に空気を溜めて、これが最後だと、まるで自分自身に言い聞かせるように小さく溢す。喉が鳴った先はわたしなのかハザマさんなのか判らない。五感がヤケに研ぎ澄まされて、壁に掛かったアンティークの、柱時計の振子が軋む音が重厚に響いていた。
「私は、ミョウジ……ナマエの事を愛しています」
どの瞬間からか首に添えられていた冷たい指先が震えていた。ここ一番の際にだけ覗く視線が直線的にわたしを見据えている。キット今までのわたしはコレについて「冗談はやめてください」「迷惑です」「からかってるんですよね」「わたしは嫌いです」だとか、軽く捉えて受け流していたんだろう。ソレに失望した彼は何億以上もその場でわたしを殺して、殺して、自らの屍の頂点で言葉を捜している。
当然生き存えたいとか言う陳腐な本能では無い。ソレよりズット直情的で、人間めいた気持だ。いない間もいた期間も、本当の処わたしは延々同じ事を考えている。
「わたしも、ハザマさんのことが好……大切です」
選んだ言葉に彼は優しく笑った。
「まあ及第点としますか。貴女にしては上出来です」
「……前言撤回しますよ」
「それは勘弁してください。貴女の残機はもう無いのですから!」
ハザマさんの腕がわたしをキツく抱き締めた。頸動脈ではなく、腕ごと身体を締められるのはコレが初めてなんだろう。煩いぐらいに跳ねているのはわたしの心臓だけでは無い。
柱時計が三時を指して鳴っている。大音量も負ける程度、わたしの耳にはハザマさんの声だけが低く拡がっていた。成功したと、彼が息を漏らす。
「そんなことの為に変な話してたんですね」
「そんなことの所為で殺されてきた方に言われたくはありません」
絡めた腕が解かれて、同時に床に崩れ落ちたわたしに彼が左手を差し出した。あの日消滅を予兆させた五本の指は今度は将来を蓄えている。馬鹿馬鹿しい、この期に及んでわたしは彼の幸せを祈っている。
「本当はこの腕を切り落として真実味を持たせたかったのですが、フィラデルフィアの再現は失敗でしたね」
「意気地なし」
まんまと残った指先はわたしを拾うでも無く、少し前のように髪を優しく撫ぜている。愛していますと、今度は素直に言葉が出てきた。ハザマさんは目許を歪めて、慈悲深く笑った。ソノ表情がいつか想像していた「わたしの考えるハザマ大尉」そのもので、冷えた汗がジンワリした高揚に代わった。