そうして翌朝、
何も変わらない
一日が始まった
筈だった。
執務室に誰もいない。
そう言えば消えるとか何だとか話していたことを、未だ重い目蓋を擦りながら思い出した。この人の無断欠勤というか、不在ならばコレが一度目では無い。指示待ち人間のわたしは上司がいなければ何ら活動が出来ないので掃除をしたり居眠りをしたりして過ごしている。
諜報部に用事がある人間は最早わたしを残すばかりである。その日と、ソレから次の日、翌々日もそのまた先も彼は一向に気配を見せなかった。休日を挟んで翌週へ、しかしハザマさんは現れない。
「あの人って今どちらにいらっしゃるんですか? いつものサボりにしては長過ぎますし、現地調査の予定も入っていないはずなんですが」
「あの人?」
「諜報部の、わたしの上司のハザマ大尉ですよ。迷惑してるんですが」
「……諜報部はお前以外誰も残ってないだろ」
瞬間わたしの背中を先日と同じように、嫌な汗がツーッと駆けた。廊下で捕まえた術式部隊の少佐は迷惑そうに吐き捨ててそのまま冷たく去って行く。反応が、あまりに直情的で最後の日の「消える」が現実になったのでは無いかと胸が大きく脈打った。
生き残った数少ない同期に他部署の上官、事務局といくら話しても誰も執り合ってくれない。どころか内戦の処理で頭がイカれたかと心配される始末で、だからわたしはありったけの資料を取り寄せてハザマさんの行方を捜した。ただ流れとしては当然と言うべきか、無いのだ。
どこにも、彼が生きていた証が見当たらないのだ。
冗談のように思われても仕方が無いが、集合写真にも、わたしの隣にいた筈のハザマさんの顔は知らない別の人間に差し替っている。
「本当に知らないんですか?」
「ですから何度問い合わせられたところで、そのような人はおりません」
「そんなはず……ないのに」
軍病院に収監される予兆を感じて切り、わたしは誰にも彼の事を話さないようにした。そもそも諜報部はコードネームで呼び合うのだから記録が残っていないのも当然だと気が付いてからは、独り黙黙と人間のプロフィールを漁り、おかげでアレ程使えないと揶揄されていたわたしの評判は「統制機構の人員辞典」と呼ばれるまでに至っている。今のわたしを見たならばハザマさんは褒めてくれるだろうか。
あの日補佐役たる自分の仕事にアレ程嫌気が差していたのを棚に上げて、わたしは、彼の事ばかりを考えている。同期の弔いに参列する都度、儀礼服で俯く人間の髪色と顔を窺ってアレでも無いと落胆した。内戦が終わる時分で報告書を見返して、ハザマさんがクセの酷い字で綴っていたソレが総てわたしの文字にすり替わっている事に気が付いた。
あの人は元から存在しなかったのではあるまいか。
タルパとかイマジナリーフレンドとか言う小噺を聞いたことがあった。全てはわたしの妄想で、例えば昔付き合っていた人が死んだ辺りから、理想の上司だとか、空想上の仲間だとか、机上の恋人だとか、そう言った 自分にとって都合の良い存在を作り上げていたのでは無いだろうか。
傷痍軍人が先ず病むのは精神であることは士官学校で習わずとも明らかである。幸いにも作戦に臨む事の無かったわたしは四肢こそ残っているが、心がズタズタに壊れていて、文字通りオカシクなってしまったのだ。そう考えるならば忽然と姿を消した彼の事もカンタンに説明が付いてしまう。
もう居ない(最初から存在しない)人を回想するのは辞めよう。
フィラデルフィアのように、最下層に飛ばされて、土や木と同化してしまったハザマさんの姿を夢に見た。何度諦めようと画策しても彼はわたしから消えてはくれない。どうせ消えるならば、キレイサッパリわたしの記憶からも失くなってしまって欲しかった。