明日の事は明日思い煩え。
最近明るくなったねと、よく色んな人から言われるようになった。憑きモノが落ちたようだって、心当たりはあるけれどわたしは未だに黙っている。実は隣の席の彼と付き合っています、いつ別れるかも分からないし復職したてで、気まずくて誰にも話せていない。
「あ、杉元くん。もう上がり?」
「苗字さん! ちょうどよかった」
百之助さんは今日も直行直帰で事務所にいない。さっさと帰ろうと給湯室でマグカップを洗っていたところを杉元くんが通りかかった。薄っぺらい鞄を持った彼は自販機に用があったらしい。
「サイダー好きなんだよね? 奢るよ」
「ごめん、わたしあんまり炭酸得意じゃないんだ」
「あれ? 尾形の奴が言ってたんだけどな……」
「百……尾形さんが?」
なんとなく百之助さんは、わたしの好きなものも行動も、すべて網羅しているものだと思っていた。彼の前で飲んだ炭酸飲料なんて飲みの席で乾杯するときのビールぐらいなのにどうしてだろう。
勘違いされることもあるんだと思ったら何故だかとても安心した。どうしたことかあの人は、わたしの好きなことや欲しいものを全部知っているのだ。
「ちょうど良いって、また支払期日切れの請求書でも見つけたの?」
「明日が支払日だからセーフでしょ?」
「今すぐ申請して下さい」
「明日朝イチで絶対やるから!」
コーラのキャップを開けながら杉元くんが豪快に笑う。入社二ヶ月になって彼の問題児っぷりが際立ってきている、こういうのは最初が肝心なのだ。
自腹で立て替えてもらうよ、とクギを刺すと杉元くんは顔を真っ青にしながらぎこちなく笑った。この攻撃が効いているうちが花なのだ(牛山さんなんか平気で期日をぶった切ってくる。去年の日付の請求書が机から大量に出てきた時は気絶するかと思ったものだ)。
「それで、どうしたの?」
「そうそう、この前話したいことがあるって言ったろ? アレなんだけど解決したからもういいよって、一応伝えとこうと思ってさ」
「あー、そんなこともあったような……」
思い返すとあの日から彼と距離が縮まったんだ。数日後の深夜にはわたしは百之助さんと、思い出して顔が赤くなった。
夕焼けがブラインドの隙間を縫って照らしているから杉元くんはキット気付いていないだろう、多分、そうだ。
「なんだったの? 気になるかも」
「怒らない?」
「内容によるかな」
「あ、何飲みたい?」
杉元くんが千円札を自販機に飲ませて、どれが良いかと手を差し出す。しいて言えばコレだろうか、無糖のカフェオレがガタンと取り出し口に落っこちた。
「仕方なく二人で飯食いにいった時の話なんだけど」
シンクの縁に腰を掛けて、杉元くんが神妙っぽく眉をひそめた。昨日百之助さんが、彼とランチに行ったと話していたのを思い出す。まさか浮気でも、とか思ったけれど杉元くんはわたし達のことを知らないはずだ。
「あいつって飯食うの遅いじゃん? そのくせケータイいじってるから何だろうと思って画面覗いんたんだけど、苗字さんの写真がズラーッて並んでて」
「えー! たしかに尾形さんって案外写真撮るの好きだけど」
「無言でずっと眺めてるからさすがに気色悪いって思ってたんだ。ごめん、しょうもない話で」
彼はよく写真を撮る。一眼レフとかそう言ったものは持っていないけれど、ふとした瞬間にわたしを撮ってトークアプリで送ってくれるのだ。
あまりに不意なものだから大体全部間の抜けた顔なのだけれど、振り向き様とか、ご飯を作っている時とか、そういう何気無い瞬間を残しておくのが好きな意外とロマンチックな人なんだろう。
思い出し笑いをするわたしを杉元くんが、いいなあとか呟きながらいじらしく見つめている。
「苗字さんって前まで髪長かったんだね。あの時は入社したてだったから誰か分かんなかったけど、彼女の寝顔の写真撮ってるとかアイツも案外可愛とこあるんだな」
「……え?」
喉の奥が詰まるのはキット気のせいだ。話の内容が、怖いからとか、そういうのでは、絶対に無い。
「職場じゃ全然話さないから、別れた女の写真見てるヤベえ奴だと思ってたんだ。でもまだ続いてんだよね? ちょっと安心した」
「え、杉元くん、それって昨日のことだよね?」
「新人研修の時だったかな。入社してすぐの……苗字さん?」
付き合い始めたのはつい最近のことで、髪が長かったのは前の職場にいた頃だ。百之助さんのケエタイはたまに見るけれど、寝ている時の写真なんてひとつも無かった。
血の気がサーッと引いていく。寝顔、写真、浮かび上がるのは何年も前に届いていたダイレクトメッセージのURLだ。嫌な記憶が一挙に押し寄せて、手がガタガタと震えている。
「苗字さん大丈夫? 顔色悪いよ。よかったら送ってくけど」
「あ、電話……」
どこかで見てたみたいな完璧なタイミングで、ディスプレイに「ひゃくのすけ」の文字が踊っている。出なければ、取り返しの付かないことになるような気がした。
杉元くんが差し出した手を払いのけるようにして階段に走った。エレベーターを待っている時間がない。電話口の向こうで、尾形さんは冷たい目をしているに違いない。
「尾形、さん……? どうされたん、ですか?」
「百之助だろ? 名前」
「あの、わたしまだ仕事中で」
「さっき荷物まとめてたじゃねえか。それより、なあ。杉元とは関わんなって言ったよな?」
「どうして、知ってるんですか」
駆け降りた階段の下には尾形さんが、案の定真っ黒な瞳で立っていた。膝に力が入らない。残り二段なのにうまく降りられなくって、崩れ落ちた所を彼の太い腕が支える。体温が冷たい。
「大丈夫か?」
「尾形さん……もしかして」
「オイオイ、適当にカマ掛けただけでそれって、本気で浮気でもしてたのか?」
「嘘……?」
「お前は分かり易すぎるんだよ」
見上げると、百之助さんは困ったように笑っていた。あア、コレは、わたしにだけ見せてくれる笑顔だ。良かった、何ンでも無かったんだ。
「ごめんなさい。杉元くんから変な話聞かされて……」
「名前の髪が伸びてた頃の写真なんざ、俺が持ってるわけねえだろ」
「そう、ですよね。勘違いですよね」
「そんなに疑うなら今見せてやってもいいぜ?」
「大丈夫です、百之助さんのこと信じてますから」
こんな所職場の人に知られちゃったらきっと、明日には噂になっているんだろう。バレちゃいますと言ったら彼は、そっちの方が都合が良いと笑った。写真の話もキット当てずっぽうだ。百之助さんからはいつものバニラではなくて、ぬるいシトラスの香りがした。