汝、隣人を愛せよ。 | ナノ

愛は寛容であり、愛は情深い。

病院のベッドの上で、目が覚めた時にお父さんとお母さん、それから本社の人が泣いていた。言葉も紡げないような二人を押し切ってその女の人は、ごめんなさいと崩れている。男に住所を告げてしまったと、なんだ、そういうことだったのか。
ああ、わたしって生きてるんだ。気付いたら途端に横腹に激痛が走る。丁度巡回していた看護師さんが駆けて来て、すぐにお医者さんから鎮痛剤を注射してもらった。すぅ、と、痛みが引いたような気がしたのはただの勘違いだろう( 効能が早過ぎるんだ )。
意識が戻ったからと翌日には警察の方が次々にやって来た。犯人はトラックに轢かれて、そのまま行方不明です。けれど身元だけは判明しました。

こっちでは有名な地主さんが現れたのはソレから暫くの話である。ある程度歩けるぐらいまでには回復したけれど精神だけは不安定で、虚ろな目の前にワの字眉毛の壮年の男性が土下座した。どうか、内密に。親は怒っていたけれどわたしだって、できれば誰にも知られたくないし二度と思い出したくないからお金を受け取った。わたしを刺した彼は入院中で、多分もう保たないらしい。一生関わりたくないです、と呟いたら地主さんも、あの出来損ないとは冥土から帰って来たとして金輪際縁を切るだとか吐き捨てた。


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目が覚めたら尾形さんはいなかった。一夜限りの関係にしては席が近過ぎるんだよなア、昨日の流れは残念なことに鮮明に記憶にあって、頭を抱えながら携帯を見ると彼からのメッセージが何件か届いている。
早く起きろ。飯ぐらい食え。仕事終わりに寄るから。顔を合わせて一体わたし達は何を話すんだろう。

アレだけのことをしたのに髪も服も、少しも乱れていなかった。シャワーを浴びよう。今日は早めに切り上げると、メッセージが重なった。終業まではまだ時間がある。
お気を付けて。短いメッセージの返信にはすぐに既読マークが付いた。けれどそれっきり、特段何にも会話は続かず日が暮れていく。

「あ、お疲れ様です」
「随分と他人行儀だな。昨日はあんなに」
「やめてください!」

チャイムが鳴ってドアロックを外すと、マスクを外した尾形さんが面白そうに笑っていた。
お土産にと彼は職場近くのケーキ屋さんで買ったシュークリームを持って来てくれた。二人しかいないのに箱イッパイに、尾形さん自身は甘いものがあまり得意ではないらしい。

「プリンが入ってるやつは売り切れだった。すまんな」
「え? 普通のも好きだから大丈夫ですよ」
「コーヒーいるか?」
「わたしが作りますから座っててください」
「病人は大人しくしてろ」

尾形さんはクロゼットの中に積んだままの段ボールからケトルを拾ってキッチンに立った。見えるところに物があるのがあまり好きではないからそこに解いていない荷物を突っ込んでいたのだけれど、彼はまるでどこに何を直したのかを全部把握しているみたいにスムースに動くのだ。

案外快適かもしれない。見掛けによらず気を遣ってくれる尾形さんのおかげで、わたしは本物の病人みたいに何でもかんでも看護してもらっている。コンタクトの保存液がちょうど切れていたんだけれど、伝えるまでもなく洗面台に補充してあった。多分今朝、出勤する前に見ていてくれたんだろう。

「無かったことにされるんだろうなーって思ってました。尾形さん、女の人に困ってなさそうですし」
「名前こそ簡単に無かったことに出来るんだな」
「え、何をですか?」
「……。名前で呼べって言っただろ」
「あっ……」

百之助さん、と小声で言ったら彼は嬉しそうに笑ってわたしを抱き寄せる。不思議と今日は、窓の外を気にすることなく眠れそうな気がした。コーヒーを飲んだっていうのに意識はするりと遠退いてって、せっかく来てくれてる百之助さんを置き去りに気が付いたら眠っていた。


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百之助さんはいつでも暇なわけじゃないので会うのは決まって水曜日と金曜日、それから土曜日の夜だけである。ひとりでいるのは最初こそ不安だったけれど、アレ程悩まされていた「誰かに尾行されている」という被害妄想から解放されてわたしはどんな時間にでも外に出られるようになった。

「お母さん! 最近わたし彼氏できたの。……違うって、職場の人。………えー、……うん。大丈夫だよ。でもちょっと、口数少ないとこが気を遣うっていうか……そうそう、わたしといてもつまんないのかなーって。でも大丈夫だって!」

なので実家への連絡は月曜日の夜にするようになった。アレ以来、彼は会う都度身体を求めてくるので実のところ疲れてそれどころではないのだけれど、一度この定時連絡を怠ったら両親は遠路遥々家に乗り込んでくるに違いない。それがもし、百之助さんとバッティングしてしまったら何かと面倒なのだ。

「それじゃあまたね。おやすみ」

もちろん職場では顔を合わせるけれど、周りに気を遣わせるのも嫌なので今まで通りのただの隣の席の人同士を演じることにしている。職場での百之助さんは相変わらずいつもマスクとイヤホンで武装していて、たまに事務課の皆に紅茶を淹れてくれて、今まで通り素っ気ないなりに上手く周囲に溶け込んでいた。

その水曜日も、当然来るものだろうと身構えていた。
気負っても彼は毎日誰よりも遅くまで働いているので、次第に心身が緩んできてファッション誌を読みながらウトウトしていた。ただいま、とかふざけた百之助さんは合鍵を開けてドアロックに詰まる。玄関口へ出迎えると隙間から恨めしそうな彼の目線が覗いていた。

「もうすぐ着くって連絡したのに」
「すみません、うっかりしてて」
「どうせ雑誌でも読んでたんだろ」
「すごい! 百之助さんってわたしのことなんでも知ってるんですね」

うちのシャンプーは、あんまり薬局やスーパーに置いていないシトラスの芳しい外国の品物だ。ディスペンサーに入れていてパッケージなんて見たことが無いはずなのに百之助さんは、なくなりかけるとすぐに買って来てくれる。
それからもう生産中止になっているものだとばかり思っていたタオルケットも、パジャマも、へたっているからと差し出すのだ。彼はゴミ出しまで買って出てくれるので自分があたかもお姫様にでもなったような気分になる。

「そんなの当たり前だ」
「元カレとか、何回言っても誕生日も覚えてくれませんでしたよ」
「怠慢だな。世の中の男女なんざ、全員お互いの趣味も日常生活も全部知ってんだから」
「そうだったらこの世に離婚はありませんよ」

アハハ、笑っているのはわたしだけだった。百之助さんが心底不思議そうな顔をしてわたしを覗き込む。首をかしげる仕草がなんとなく似合ってなくて面白い。
そんな疑問っぽい顔をされたところで、恋人でも夫婦でも結局は他人なのだ。お互いを余すこと無く知っている筈がない。

「だったらどうやって付き合うんだよ。知らなかったら何も上手くいかねえはずだ」
「えーっと、知らないからこそうまくいくんじゃないですか? 会話も生まれますし」
「……そうだった、名前。俺ってそんなに口数少ねえか?」
「え? 多い方だとは、思いませんけど……」

彼はわたしが、物静かなところが取っ付きにくいと考えていることも察してるんだ。そんなに分かりやすい性分だったつもりはないけれど百之助さんが言うんならそうだろう。
百之助さんはいつもの無表情のまんま何かを考えている。そういうところが、ちょっとだけ苦手だって本人には言えるわけもない。

「今日は杉元と昼飯食いに行った」
「そうですか。何食べたんですか?」
「肉。うまかったんだが安物だったせいで顎が痛え」
「そのケガってどうしたんですっけ」
「名前が食ってた菓子パンの方がよかった。駅前の、100円の割りには出来のいいやつ」
「あれ……? 朝から外回りでしたよね」
「帰り道に柴犬がいた。自転車のおっさんが引っ張ってんの」
「百之助さん?」
「それと今日は新規を3件取ったんだ。そのうち登記簿が要るようになるから用意しておいてくれ」
「あの……」

矢継ぎ早に、百之助さんが今日あった出来事を話していく。時系列はめちゃくちゃでこれでは会話と言うより備忘録だ。
それから、と彼は右上を眺めながら一日を反芻している。そうか、この人は口数が少ないんじゃなくって単にお喋舌りが苦手なんだ。

「悪い、つまらなかったよな」
「無理してお話しようってしなくても大丈夫ですから。逆に気を遣わせちゃいましたね……」
「名前は昔から優しいよな」

愛おしそうに、百之助さんがわたしを抱き寄せる。昔からって、何かしただろうか。頭を撫でるてのひらは次第に高度を下げていって、腰に回った時にキスをされた。背もたれにしていたベッドの縁に身体を押し付けられて肩甲骨のあたりが痛む。

「百之助さん、ちょっと痛い……です」
「やっぱ起きてる時が一番可愛いわ」
「からかわないでください!」
「つまんねえ事で一々悩むなよ。名前といたら楽しいんだ」

少しだけ年齢を感じる目元のシワが、ほんのり深くなった。やさしいなあ、この人は。真っ黒な目の中にわたしが映り込んでいる。何個かあった違和感と一緒に、このまま吸い込まれてしまいそうだった。



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