平和があるように。
「へー、結構片付いてんじゃねえか。土日に掃除したのか?」
「そうなんですよ。まだ実家に何個か荷物置いてるんですけどね」
「ビールとかねえの? 糖質ゼロの」
「昨日買ったのが冷蔵庫に入ってますけど、大丈夫ですか?」
「一次会じゃ水しか飲んでねえ」
あの席にいてノンアルコールでやり過ごせるとは恐ろしい。宇佐美さんとか菊田さんとか、結構エゲツないぐらい飲ませてくるので有名なのに。
冷蔵庫を開いて、所狭しと500ミリ缶が並ぶ光景には我ながら壮観である。仕事に復帰したから薬を減らしましょうと、手始めに睡眠導入剤が少なくなった。ソンナ中でお酒を飲んだらよく眠れる、ってお母さんに電話で話したらそれはそれは怒られたのだけれど仕方がない。
「コップいりますか?」
「そのままでいい」
うちの照明の下で見る尾形さんは結構普段通りの顔色をしていた。夜道のせいで勘違いしただけなんだ。我が物顔で彼は、トイレと言って部屋を出て行った。
1Kのマンションなんてどこも同じ間取りをしているから、特に案内をする必要も無いんだろう。尾形さんは新しいタオルを手に持っている。遠慮が無いのは気を遣わないで済むから良いことだけれど、あまりに当然のようにしているから少しだけ厚かましいと思う。
「お前って結構飲むよな」
「結構ヤケ酒してて、ちょっとだけ強くなりました」
「ズル休みじゃねえか。真面目に働け」
「あの時はちょっと、なんか……うーん、確かにズル休みかも」
この職場に籍を置いてもう三年になる。けれど実際稼働していたのはものの一年半だ。
休職の理由は信頼できる上司だけが知っている。あの人の便宜が無ければ今頃お酒に溺れたまんま、家から一歩も出られなかったんだろう。ただあの人がいなければそもそも今みたいになっていなかったかもしれない。
「飲んだらそりゃあ眠れるかもしんねえけど、程々にしとけよ」
「気を付けます……」
「ソラナックスって確か酒と飲み合わせ最悪だったろ」
「そうなんですけど、翌日休みだったら少しぐらいいいかなーって。この前もちょっと病院で怒られちゃいました」
「アル中になるぞ」
尾形さんの髪が少しだけ乱れている。
ネクタイをカバンに突っ込んで、ボタンを開けてお酒を飲む姿はなんとなく色っぽかった。じっと見ていると彼は迷惑そうに立ち上がって、ベランダならいいよなと言う。背広の内ポケットからライターとタバコをまさぐって、できればやめて欲しいけれどわたしは男の人にあまり意見が言えない。
「外狭いな」
「一人暮らしのマンションなんてこんなもんですよ」
「もっと広いとこ引っ越せよ。前の家の方がよっぽど快適だったんじゃねえの?」
「確かに前住んでたとこ、木造だったけどサンルームもあってロフトもいっぱい物が置けて好きだったんですよね」
「まあ引っ越して一ヶ月じゃそうそう住み替えらんねえか」
本当は前の家が好きだった。家庭菜園も出来たし、けれどあんなことがあってまで住み続けるわけにもいかない。
半ば親から引きずられるようにあの家は引き払った。最近の引越し業者さんは行き届いていて、トラック二台ぐらいを使って後を付けられないように慎重に荷物を運んでくれるのだ。
「何か食べますか? ゼリーとかしかありませんけど」
「桃味」
「はーい」
今回の転居でリモコンを実家に置き去りにしてしまっている。尾形さんは流れるようにテレビ横の電源を入れて、カチカチと、慣れた手つきでチャンネルを回した。
まだ日付が変わっていないので結構バラエティ色豊かだ。いつも見ている芸人の番組でザッピングが止まって、彼はたまにつまらなさそうに笑っている。
「尾形さんって笑うんですね」
「結構表情豊かな方だと思うぜ?」
「それはどうかと思いますけど、もっと寡黙な人だと思ってました」
「名前はあんまり笑わなくなったとか言われるだろ」
あ、わたしの名前知ってたんだ。それもそうか、この人は隣の席に座っているんだ。
代わりにわたしは尾形さんの名前を知らない。なんか、古風な名前だとは思ったけれどその程度の印象しかなくて、そのぐらいの人を家に上げている状況がヤット頭に入って来た。
「あの、明日早いんでお風呂入ってきてもいいですか?」
「その間に帰っとくから安心しろ」
「あー……すみません、今日はありがとうございました」
「また月曜日な」
本当のところ、男の人を家に上げてしまったら何か悪いことが起きるんじゃ無いかと心配だったのだ。浴室の鏡に映るわたしの腹部には、杉元くんの顔の傷も尾形さんの手術痕も、帝王切開でさえも目じゃ無いような大きな縫い跡が残っている。
けれどシャワーから出ると尾形さんは影も形も無くって、代わりにコンビニで買ったと思しきグレープ味のグミが置いてあった。コレ好きなんだよなア。
当然連絡先なんて知らないから月曜日まできちんとお礼は言えない。失礼な奴だとか思われただろうか。復職したのにまだ心が不安定で、少しと言わず気になってしまったから薬を飲んだ。あれ、どうしてあの人はわたしが飲んでる薬の名前なんて知ってたんだろう。