汝、隣人を愛すこと。
何ンとなく、この人に関わるとよろしく無いんだろうなアと思っていた矢先に歓迎会が開かれた。
薬を飲んだばかりだからソフトドリンクで事務方の先輩達と慎ましやかに盛り上がっていたところを、営業課に新しく配属になった新人くんが酔っ払いながら乗り込んで来た。
「新人の杉元佐一です! いつもご迷惑をお掛けしてすんません!」
この人のことならよく知っている。
自衛隊をやめてうちに来たという杉元くんの噂話は部屋ごと違うわたし達のところにもすぐに飛び込んで来た。カッコいいけど顔に大きな傷があるとか、入社早々徹夜で仕事をしていたのに翌日もピンピンしていたとか、暑苦しいうちの営業課の中でも一際目立つ彼の三本線に釘付けになってしまった。
「現役の頃にドジ踏んだんですよ。こいつのせいで結構書類出落とされちまって」
「自衛隊って大変なんですね」
「苗字さんは以前何されてたんですか?」
「お菓子とか売ってました、デパ地下で」
「ああ! それっぽい!」
杉元くんは人懐っこくて、話しやすいからすぐに誰とでも仲良くなっている。今日はこの子の歓迎と、わたしの復職に関する会だというのに中心は気が付けば彼だった。
営業課とは犬猿の仲であるうちの部署の人間も、杉元くんの入社以降結構書類に緩くなっている。こういう人はどこの会社にも必要なものである。
「苗字さんって落ち着いてますよね。失礼ですけどおいくつですか?」
「多分杉元くんと同い年です」
「よかった、同期じゃん!」
杉元くんがわたしの手を握った。夏でも長袖の下には結構深い傷がそこかしこに刻まれている。
手のひらは大きくって、多分加減はしているんだろうけれど結構痛む。仲間意識を持たれても困るしあんまり男の人から触られたくないんだよなア、先輩達は誰も助けてくれない。苦笑いをしながら俯いていると営業さんのテーブルから大きな声がした。
「杉元! 携帯鳴ってんぞー」
「あっ、そしたら苗字さんまたね。今度昼メシ行かない?」
「え、あ……うん」
輪の中に杉元くんが戻っていく。なんとなく視線を追っていると、いつも隣の席にいるあの人が隅の方で胡座をかいていた。あ、マスクしてない。
「あの人って営業なんですか?」
「あー、尾形さん? 苗字さんが休んでる間に代わりで来た人なんだけど、営業に異動になったんだよね。席足りないからずっとこっちの部屋で」
「……すっごい傷」
まさか知らなかったとは、って言いながら先輩が雑に説明する。内容よりも尾形さんの、普段マスクに隠れている顎の手術痕みたいのが気になってしまった。
あんなに大きければ多分隠しきれてはいなかったんだろうけど、そもそもわたしはアレぐらいの年の人が怖くてじっと見たことも無かったのだ。ぼんやりしていると先輩が、競争率高いよと釘を刺した。大人の魅力とか言うけれど結局わたし達は彼に餌付けされているだけに過ぎない。
「それより杉元くんイケメンだよねー」
「私はインターンの鯉登くんの方が好きかな」
「月島課長も真面目で良くない? 苗字さんは?」
「え……っと、わたしは、書類を期日内に出してくれる人なら誰でも好きです」
「確かに!」
お酒の力も相俟って先輩と上司が揃って笑った。
今日は来てよかった、しばらく休職している間に見知った顔が何人か辞めたり、転勤になったりしていたけれどいつもの皆は優しい。上司がこっそり、席ごめんねと耳打ちするがそれにはやっぱり苦笑いするしか出来なかった。大丈夫です、嫌になったらちゃんと言いますから。
「二次会どうする?」
「明日は朝から乾燥機が来る予定なんで、もう帰ろうかと……」
「いいなー乾燥機!」
「増税前に買っちゃいました。それじゃあ失礼します」
「気を付けてねー」
歓迎会は滞りなく終わった。そのまま帰るのは家庭がある人とか、遠方に住んでいる人ぐらいでおおむね全員が近くのカラオケ店に流れていく。
二十人程度の、列から杉元くんがはみ出していた。私のことを見つけるとすぐに駆け寄ってくる( 少しだけ、犬みたいだと思った )。
「苗字さんもう帰っちゃうの?」
「明日用事があって」
「ちょっとぐらいいいじゃん。俺もっと苗字さんと話したいことあるのにー」
「杉元くん酔ってるでしょ」
「あの程度じゃ酔わねえって」
とか言っているけれど彼は相当な量を飲まされている。女子会気分の事務課のテーブルとは打って変わって、営業の人たちはお店の人から怒られる手前ぐらいの勢いで酒をかっくらっていた。
杉元くんからは嫌という程お酒のにおいがして、酔っ払いって怖いなアと何も言えずにいたところを今度は別の人が列から逸れてくる。
「オイ杉元、部長が呼んでたぜ」
「お前さっきもそんな感じの事言って邪魔してきただろ」
「携帯なら鳴ってたじゃねえか。アップデートの通知だったがな」
「クソ尾形、次も嘘だったら殺す。苗字さんまたね」
「あ、うん……、あんまり飲みすぎないようにね」
入社してまだ一ヶ月も経ってないのにもうあんなに仲が良いんだ。親睦が深まっているのとは違うけれど、男の人ってよくわからない。わたしだったら先輩社員にあんな口は叩けないな。
助けてくれたのは尾形さんだ。呆然と立っているわたしを、彼は死んだような目で見下ろしている。近くで見ると傷痕はいっそう生々しい。
「あ……、ありがとうございました」
「別に助けたわけでもねえんだが。ぼーっと突っ立ってないでさっさと歩け。通行の邪魔だ」
「すみません……」
初めて話すのに随分な口の聞き方だ。年は上かもしれないがわたしの方が社歴は長いのに。
諸事情あってわたしは一年程度、仕事をおやすみさせて頂いていた。その期間に入社したのがこの人である。得体の知れない人は得体の知れない人ばりに静かにしていて、まさかこんなにつっけんどんに話すものだとは思っていなかった。
「尾形さんも帰るんですか?」
「お前ん家××町だろ。あの辺治安悪いから送ってってやる」
「え? あー……ありがとうございます」
わたしが××町に住んでるっていつ話したっけ。
上司に報告していたところを聞いていたんだろうか。男の人から逃げるように引っ越したけれど、一方でこうして誰かが付いてくれるのは安心する。尾形さんは歩きタバコをふかしながらツカツカと歩いて行った。たまにわたしがちゃんとついて来てるか振り返りながら、時折蛍光灯の夜蛾を目で追いながら、ふらふらと自販機でコーヒーを買ったり不意に携帯をいじったり結構奔放な人だ。
こんなんだからあんな大きな傷を作ったんだろう。斜め後ろを歩きながら縫い目を数えていると、尾形さんは急に立ち止まった。
「言っとくが俺は自衛隊上がりじゃねえからな」
「すみません、そんなに見てました?」
「飲みの席からずっとな。それが面倒だからいつも隠してんだが」
「お客様先でもずっとマスクなんですか」
「アホか。会話のとっかかりにちょうど良いんだよ」
こういうのも営業トークの糧にするんだから男の人は逞しい。
わたしだったらあんな、顔に大きな縫い痕が付いてしまったらいよいよ外を歩けないだろう。横腹の古傷が痛んだ気がした。あの時ですらすっごくキツかったのに、顔に麻酔をしたと思しき彼はどれ程痛かったんだろう。
「ここ、右行ったら美味い定食屋があんだよな」
「詳しいですね。わたしもよく行くんですよ」
「あとあっちのドラッグストアはビールが安い」
「尾形さんもお家この辺なんですか?」
「いや」
ポケットに手を突っ込みながら彼がぶっきらぼうに話す。引っ越して一ヶ月経っていないけれど、この土地で穴場を知っているのは自分だけだと勝手に思い込んでいたのが恥ずかしくなった。
三叉路を彼は、迷いなく歩いていく。足音があんまりしない、なんか猫みたいだ。蛍光灯に照らされた横顔は青白かったので白猫だ。
「尾形さん顔色悪いですけど、二次会戻れますか?」
「だるいから帰る」
「家どちらなんです?」
「ここからバス乗り継いで50分ぐらいのとこ」
「えー……あ、お水飲んで行きます?」
尾形さんは特に返事をしなかったけれど、遠慮無しに住宅地に進んで行く。あれ、この人どうしてうちのマンション知ってるんだろう。