汝、隣人を愛せよ。 | ナノ

汝、敵を愛せよ。

 寒空の下でわたしは二重ドアーに戸惑っている。信号機が縦になっているのは雪を避けるためだって小学生のころ授業で習ったっけ。思っていた以上に世界というか、日本は広かった。一歩世界を変えると当然誰もわたしを知らない。
 引き継ぎもしないのはお世話になった人達にあまりに失礼だったけれど、上司はあの日みたいに泣きながらひたすらごめんなさいと繰り返していた。

「今日からの苗字です。苗字名前……、わからないことばっかりですけどよろしくお願いします」

 わたしはまた罪を被っていない。
 あの人が無断欠勤の末解雇になったって、教えてくれたのは職場の後輩だ( この子は何も知らない )。悪い夢を見ていたんだ、自分は。尾形百之助は結局見つかっていないから地元には帰れなくって、住民票を何回か経由して結局北海道まで来てしまった。

「コーヒーと紅茶、どちらが良いですか?」
「ひっ……!」
「苗字さん?」
「あ、すみま……せん。水筒あるので大丈夫です!」

 隣の席には妻子持ちの、人の良さそうな壮年男性が座っている。小さな会社だから厳密な課とか部署とかは特になくて、大雑把に部長と呼ばれるその人は受話器に耳を預けていた。新しい職場にはパソコンをうまく扱える人がいない。人並みに毛が生えた程度のわたしの技術ですら歓迎されて、アレやこれやと資料のテンプレート作成を任されている。
 歓迎会は慎ましやかに、お昼の小料理屋さんで行われた。ここには自衛隊上がりの顔にキズのある同世代も、私語が多いのに作業の早い先輩も、一挙手一投足を気にしてくれる上司もいない。家族からの電話はあまりかかって来なくなった。この世界でわたしはひとりだけで、誰もわたしのことを気にしない。

「人手が足りてないんだけど、知り合いに良い営業マンとかいない?」
「営業……」
「って無理か。苗字さん元々鹿児島の子だったね」
「ああ、まあ、そんなとこですね」

 たまたま新卒の配属先がソコだっただけで、そうでは無いけれどわざわざ否定するのも面倒臭かった。わたしみたいな奴を二つ返事で受け入れてくれるこの会社は最近事業を急速に広げているらしい。
 そのくせ人は選ぶので、今日も面接に来ていた若い子が門前払いを食らっていた。それから経験豊富そうな中年男性は、良いところまで進んでいたけれど履歴書に記載していた資格が嘘っぱちだったらしい。同い年ぐらいの女の人も面接に来ていた。給料は四十万欲しいとか言い出してその場でお引き取りいただいていたけれど。

 この世界にはいろんな人がいる。わたしが思っていた以上に色々、だけどわたしの三年間? いいや大学を卒業していままでと同じような経験のある人はそういないんだろう。この人生で、中編小説の一本ぐらい書けてしまいそうだとか考えたら幾分気持ちが安まるのだ。
 いつか笑い話にするか、被害者の会とかで神妙っぽく語らう姿を想像するとどんどん他人事みたいになっていく。新しい生活は前とは違って相当に忙しく、薬はもう飲んでいないけれど毎日よく眠れた。

「部長、労基から書類届いてます」
「あー……困ったなあ」

 寒い時期にここに来て、夏は殊の外暑いことを知って、もう一度冬が訪れた頃部長は業績じゃない部分で頭を抱えるようになった。急に人が増えたので何にも対応できていないこの会社は突く場所がいくらでもあるらしい。
 そういうのはわたしの管轄ではないので良く知らないけれど、割と危ないらしい。部長がどこかに電話を掛けている。是非うちに、いつから来れますか、内定の電話をこの人がするなんで珍しい。

「早速席替えするから、足元の荷物まとめといて」
「ああ、はい」
「新人さん、隣の席になるから頼んだよ」

 長らくわたしの隣には右の部長と左の壁しかいなかった。仕事を教えてあげてと言われたら少しだけ嬉しい気持ちになる。職場の人とは歳が離れているし出来上がった輪に入る気力も足りなくて、結局仕事に行って帰って眠るだけで過ごしている。
 今度の隣の席の人とは仲良くなれるだろうか。二人でランチに行って、たまに仕事の愚痴でお酒を飲んで、昔考えていた社会人っぽい付き合いをするのにはまだ遅くないはずだ。

「どこに移る感じでしょうか?」
「ああ、奥の右から二番目の所にね。新人さんは壁際だから、片付け頼んだよ」

 忙しそうに部長が席を離れていく。高齢、障害者、求職者支援機構北海道支部、老齢の方が入社するんならやっぱり思い描いていた大人のお付き合いは無理かもしれない。

「障害者雇用なんだけど、大丈夫かな」
「えっと……あんまり手助けとか、出来ないかもしれませんけど」

 鶴の一声で大移動が始まる。設立当初からここにいる先輩社員たちにとってはもはや引っ越しでだ。早々に荷物をまとめ終えたわたしはここぞとばかりに掃除に勤しんでいる。

「それに関しては問題ないよ。日常生活にそこまで支障は無いらしいし、若くて真面目な子だから」
「若い、ですか」

 この人は前も若い子と言って四十代の男性を連れて来ていた。確かに定年間近の部長にとっては大体の社会人は年下であるけれど心配だ。
 少なからず高齢者雇用ではないことに安心したけれど、わたしなんかがきちんと対応できるんだろうか。どこをどうしているとか、詳しいことを聞くのも後ろめたくて掃除機のスイッチを入れる。

「苗字さん彼氏とかいないんでしょ? 男前な人だからちょうどいいかもね」
「アハハ、セクハラですよ」

 彼氏とか結婚とか、あの日から考えないようにしていたけれど確かにそうかもしれない。そろそろ前に進んでもいい頃合いだ。もっと笑って、愛想良くして、仕事をこなして友達を作って、抜け落ちてしまったものを取り戻すには部長の言う通り丁度良い。
 真新しいデスクが隣に運ばれていく。その新人さんとどうにかなるのはちょっと考えられないけれど、少しだけ楽しくなってその日はお酒を一人で開けた。


***


 月曜日の心情は明るくて、誰より早く職場に着いてしまった。最初は補助業務程度だと聞いていたけれど一丁前にマニュアルとか作って、化粧もいつもより気合を入れて、こんな姿職場の皆さんは笑うかもしれない。
 一人またひとりと出社してきて新しい席に戸惑っている。朝礼の時間を少し回って、部長がうやうやしくドアを開けた。真新しいグレーのスーツに身を包んだ新人さんが、その後を追っている。彼は入り口の近くで頼りなく頭を下げた。それから肩を竦めながら顔を上げて、申し訳なさそうに話し始める。

「……初めまして。高校を中退して長らく現場仕事をしていたのですが、事故で右眼を失いまして。ご迷惑をお掛けすることもあるかもしれませんがご容赦下さい」
「彼は苗字さんについて事務補助をしてもらう予定だから、皆頼んだよ。苗字さん、色々案内してあげて。ああ、名前だけど……」

 どうやったらソンナ口から出まかせが出てくるんだろう。どうやってここに来たんだろう。学歴も経歴も誤魔化して、どうしてそんな平気な顔をしていられるんだろう。
 身体の力が抜けていく。わたしの隣はどうあってもこの人にならなければいけないのか。
 ペンを突き立てた抵抗と、右目を抉った薬指の感触が戻ってきた。窪んだ目玉を誤魔化すみたいに、グルグルと包帯を巻いた彼が少しも迷わずわたしの隣に腰掛けた。

「尾形百之助です。探したぜ? 名前」

 隣の席の彼は残った目を細めて愛しそうに笑った。


( 汝、隣人を愛せよ。・終わり )

20191026

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