汝、隣人を愛せよ。 | ナノ

剣を取る者は、剣で滅びる。

 部屋が真っ暗だ。
 いいや真っ黒だった。どうしたことか息苦しくって、脳に酸素が回らないから頭がズットぼんやりしている。立ち上がろうと腕をついた先には人間の感触があった。筋肉質で冷たいコレのことは誰よりも知っているはずなのに少しも安心できない。
 悲鳴を上げるために口を開こうとしたのをこの人は見逃さず硬いてのひらに顔の半分を覆われた。息だけは自由にできるはずなのに肺がうまく機能しない。

「本当に寝てたとは思ってなかったんだ。名前、悪かった。愛してる。……ああ、まだ動くなよ、危ねえから」

 急に目の前が眩しくなった。ずるりと、鼻に布が掛かっている。百之助さんの腕がねっとりとわたしの首元に回った。片手には刃物を持っていて、チカリと金属が反射する。いつもみたいに片手で外せばいいのに、カミソリで彼はわたしの下着の紐を絶った。

「だけど名前も悪いだろ。警察は呼ぶし、菓子詰めも最初の一回しか食わねえし。せっかく立ち仕事の名前のためによく眠れる薬混ぜてやってたのに」
「嫌……」
「まあ安心しろよ、俺は根に持たない方だから。そうだ、仲直りセックスって燃えるらしいぜ? 名前が寝てる間にヤったのとどっちが良いか試してみようぜ」

 あんなに好きだった百之助さんの腕も、顔も、匂いも、声も、全部おぞましいバケモノに書き換わっている。いつ見たって黒い瞳だけについ数時間前を見出して、わたしの頭はオカシクなってしまった。百之助さん、わたしの飲み物にだけ薬を混ぜてたんだって、仕事中にわたしの家に来てたんだって、事務所の入館カードとお財布と、バッグの底と部屋のコンセントに盗聴器をつけてたんだって、百之助さん。
 彼の太い指が身体をまさぐっている。蛇に睨まれたカエルってコンナ感じなんだろうか、指一本も動かないのに呼吸だけは立派に出来てしまっている。

「名前は可愛いな。このまんま年取って、バアちゃんになってもずっと可愛いままでいてくれよ」
「い、や……」
「ココ好きだろ? 最初は痛そうにするから結構時間かかったんだぜ。本当はド変態のくせにカマトト振りやがって」
「警察、電話しないと、わたし」

 そうだ、思い立ったように彼がベッドの淵を漁っている。さっきのカミソリを手に持って、彼は泣きそうなぐらい慈悲深い表情でわたしを見下ろした。空いた身体でやっていることと言えば膣奥を責め立てて、手当たり次第にキスをして、胸を揉んでいるだけなのに口から上は大好きな百之助さんだった。
 指を抜いた彼は血の混じった液体を愛しそうに舐め取ってキスをする。その口で舌を絡めないで欲しいのに、今になってもわたしは、眠っている間に教え込まれたみたいに愚直に応じてしまう。左手がわたしの手を攫って、頬の傷跡に押しつけられた。気になってたんだろ、微笑みながら彼が耳元で囁いた。

「鏡を見る度あの時の事を思い出すんだ。名前、この世の終わりみたいな面してただろ。あの時お前が突き飛ばすからトラックに轢かれて大怪我したんだよ。まあ今になっちゃ良い思い出だよな。名前が俺の為に一生モノの傷作ってくれたんだから」
「なに、するんですか、百之助さん」
「名前の可愛い顔には傷付けねえから、そんな怖い顔すんなって。その腹の縫い痕よりもっとちゃんと、俺だってわかるようなの作ってやる」
「助け、誰か……」

 最初っから知っていた。腑に落ちるみたいに落ち着いて、身体の力が戻っていく。わたしはこの人に付きまとわれて、一方的に愛を主張されて、店長とも別れさせられて、お腹を刺されて、精神を患わされたのだ。
 右手の刃物が脇腹に沈んでいく。あの時と違って熱さも冷たさも、痛みもなんにも感じない。視覚と聴覚以外の感覚が全部奪われてしまった。あア、そのカミソリはこの前ドラッグストアで買った新品だ。眉毛と違ってわたしのお腹は鈍く削がれていく。

「名前、ずっと好きだった。愛してるんだ。でも先に好きになったのは名前だろ? あんなに優しく声を掛けたり手を握ったりするから、だから仕方ねえよな?」
「( きっといらっしゃいませとありがとうございましたと、お釣りを渡したときだ )」
「名前だって俺と同じ気持ちのはずだ。そうだろ? だから名前、笑ってくれよ。いつもみたいに百之助って呼んでくれよ。名前」
「( この人は生きていてはいけない )」

 服を着たまんまのこの人の胸ポケットに、わたしのペンが刺さっている。気付いたらわたしはソレを手に取っていた。さようなら、切っ先がぬかるむように目の前の男の右目を抉っていく。プツンと、眼球が弾けるにぶい感触がした。どう考えたって激痛だろうに、彼は笑っている。
 あんなに好きだったこの笑顔も、あの声色も、青白い肌もぜんぶ黒く塗り変わってしまった。こんな思いをするならば最初っから、ただの隣の席の人のままでいたかったなア、今更叶わないんだけど。彼は力無い腕で傷口を抉る。ヤット触覚が戻って来て、刺さったままのカミソリを引抜いた。彼の目玉には深くふかくわたしの薬指が突き立っている。

汝、隣人をせよ。





×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -