汝、隣人を愛せよ。 | ナノ

全て学び、総て忘れよ。

次に出勤した時、上司がいつも以上ににこやかにしていた。隣の席は空っぽで、やっぱりわたしが来る前に彼は営業活動に出たらしい。
よかったね、皆が口々に話しかけてきて頭が混乱している。わたしのいない間に彼は、手当たり次第わたし達のことを報告して回っていたらしい。

「私が隣の席にしたからキューピット? 結婚式は呼んでね」
「あはは、気が早い、ですって……」
「尾形さんって二人の時どんな感じ? 案外甘えてくるとか?」
「あのまんまです、多分……」

席を立ったら営業課の人たちからもひとしきりからかわれた。ただあちらといえば、どうすれば事務課と机を並べられるかとか抜け駆けだ裏切り者だとか騒いでいる。男子校のひとクラスみたいで面白いな、と目を逸らしてもわたしは、何も話せない。
あの人と付き合い始めてから二ヶ月と経っていないのに、皆、まるで何年もわたし達が続いているような反応をするのだ。彼は一体何を話したんだろう。

「苗字さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「あ、杉元くん。大丈夫だよ、何にもないから」
「顔真っ青じゃん。病院とか行くなら連れて」
「大丈夫だから!」

携帯が震える。わたしは彼と違って、遠くにいる相手の話している内容とか、生活音とか、そういったものはわからないのだ。皆が祝福してくれて、幸せでいなければならないはずなのにとても頭が痛い。ずっと前に内ポケットに鎮痛剤を入れていた気がする。

「……うそ、だ」

お手洗いでジャケットをまさぐると、薬ではなく小さな機械が出てきた。これが何かはわからないけれど用途ならばよくわかる。彼はいつも、イヤホンをつけていた。
胃液が逆流してきて、個室で呻き声を上げていると上司の声が近付いてくる。気取られたくないのに、咳き込むわたしにノックが叩き込まれた。大丈夫、どうしたの、開けて、出て行ってしまったらキットあの人に連絡されてしまう。

大丈夫です、って上手く返事は出来たんだろうか。涙と胃液が止まらなくて意識が黒く塗り潰されていく。いつかと同じだ。わたしはまた、現実から目を逸らしたばっかりに他人に迷惑を掛けている。


***


「……よかった」

目が覚めた時周りには誰もいなかった。白いカーテンに 仕切られて、向こう側では看護師さんがせかせか歩く音がする。
起き上がって携帯を確認すると上司からの連絡があった。救急車を呼んでくれたらしく大丈夫ですとお詫びの返信を入れる。親が今から向かうとかメールと着信を連打しているのでそれは丁重に断ろう。

「あのー、すみません……」
「目が覚めましたか。点滴が終わるまではご安静に。先生呼んで来ますね」

入院生活のおかげであとどれぐらいここにいなければいけないかは何となく理解できた。そんな事よりも、気になる事柄を伝えようと口を開くとまた胃液がせり上がってくる。

「すみません、男の人、きてませんか」
「付き添いの方ですか? 見掛けていませんが……」
「そしたら受付に、尾形って人はいませんか? ツーブロックのオールバックで、顎におっきな縫跡があって、色の白い人なんですけど……」

来ていませんよ、と看護師さんが忙しそうに言い捨てて去って行く。どうしてわたしはこんなに安心しているんだろう。
不気味なぐらい、あの人からの連絡だけが来ていない。時間を見るにあれからもう三時間は経っている。どんなに長い商談でも、わたしの倒れた音を聞く暇ぐらいはあっただろうに。

やっぱり思い過ごしだったんだ。百之助さんのイヤホンの先には仕事用の携帯しか繋がっていなくて、あの機械は誰か違う、他の悪いヤツが仕込んだものなのだ。それかただの勘違いで、最悪な状況なんて起こるはずがない。
点滴を終えてタクシーに乗り込んだ。明日は休んで病院に行くようにと上司からの指示が飛んでくる。久しくカウンセリングに通っていない。

「あの、ここで……」

家の前に誰もいないことを確認して鍵を開ける。エレベーターは一階に留まっていた。そのまま誰とも会わないまんま、真っ暗な部屋にチェーンを掛ける。空気の入れ替えにと開いたままにしていた窓もカーテンごとピシャリととじて、一人だけの部屋で服を脱ぎ捨てた。
部屋着は先日、百之助さんが買って来てくれたものだ。ベッドに潜り込むとバニラのにおいがして頭が痛くなる。あの人はわたしがどんなに辛い時もいつだってそばにいてくれたのだ。

発作のように避けていた彼に、自分から電話を掛けた。三回、四回、コールが続いてその後に留守番電話の案内が始まる。まだ百之助さんは仕事中なんだろうか。もう二度と、今までみたいな立場で話すこともないのだろうか。
違うって言って欲しい。俺が守ってやるってもう一度約束して欲しい。あの時の地主さんの名前はハナザワで、百之助さんは何にも関係無いんだって証明して欲しい。



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