可愛いあの娘は失語症 | ナノ

喜ぶあの娘は白内障


 どこかの誰かはもうじき夏休みだと言うが、社会人に与えられた休暇はカレンダーと盆ぐらいである。
 あくる平日俺はいつものように結構な時間まで残業をし、使えない部下の後始末に追われていた。他の部署の輩はどんどん帰路に走っていき、漏らした愚痴はあの男に吸われていった。

「尾形、まだ仕事?」
「お前と違ってこっちは何人も部下がいるんだよ」
「一個役職違うだけで責任重大なもんだな」

 例の如くペラペラの鞄を肩に掛け、杉元は大袈裟に溜め息を吐いて見せた。営業一点特化の万年平社員に俺の気持ちは分かるまい(もっとも俺も長らく昇進していないのだが。この会社は学歴と職歴だけが物を言う)。
 先日とは違い、今日はとてもじゃないが飲みに誘うなんて気分にはならなかった。そもそも火曜日だ、あれからまだ五日と経っていない。

「尾形って今週の土曜暇?」
「用事による」
「明日子さんが夏休みらしくてさー、テストの打ち上げに鍋するんだけどどう?」
「このクソ暑いのに鍋かよ。それにお前ら、クレープだかなんだか食いに行ったばっかだろ」
「それとは別口!」

 まったくこいつと明日子は仲が良い。毎日連絡を取り合って、毎週会ってはどこかに出かけてよく飽きないものだ。俺はと言えばあの日帰りに有難う御座いますと仰々しいショートメールが届いて以来だというのに。

「明日子と二人か?」
「白石と、あと一人誘いたいんだけどさー。白石はどうせ暇だとして名前ちゃんって家が厳しいらしいんだよね。あれ? 尾形って名前ちゃんのこと知ってたっけ」
「……、集合は」
「終業式の後だから4時ぐらい? 尾形の家貸してくれよ! な?」
「断る。今何時だ」
「もう10時。で、来るか?」
「10時か……、明日返事するからさっさと帰れ。仕事の邪魔だ」
「へいへい。お先ー」

 結局あの時杉元が睨みを利かせたのは、明日子のことしか見えていなかったからなのか。





「佐一さんのおうちで夜に鍋パだなんて、楽しみ過ぎて寝付けません!」
「んなに大声で話してたら親に聞こえるだろ」
「下で皆テレビ見てるから大丈夫です」
「それでも抑えてろ」

 19時に入れた着信の丁度5分後、彼女は電話口の向こうで土下座でもせんばかりの勢いで有難う御座いますと絞り出した後、いかに夜に家を出る事が大変か、あの母親が簡単に外出を許した事が意外だったかを語って本題の杉元に移っていた。
 あの翌朝、厳しい苗字家の電話番号を聞いた。顔も知らない副担任を装って、クラス会をするのだと説明したらいとも簡単に落とせてしまったのだ。営業職の経験はどこで活きるものかわからない。

「杉元の家には行ったことあるのか?」
「前に一回、玄関先に……明日子ちゃんのお迎えに」
「なら独身男の部屋は俺が初めてか。言っとくがあいつの家はうちと比べてボロいし狭いぞ」
「そっちの方が独身男性感があって素敵です!」
「まったく女心はわからんな」

 あの家はこのご時世に珍しく、オートロックどころかフローリングですら無いボロアパートだ。昭和の苦学生さながらの貧乏リーマンのどこが良いのか、改めて最近の若い者の気が知れない。
 声のトーンを若干落としながら、彼女は嬉しさを隠し切れずに足をバタバタさせている(に違いない。妙な雑音が耳元にまとわりつく)。

「当日は俺の車で買い出しに行くんだと。杉元達とは現地集合な」
「何着て行こうかなー。あ、でも……」
「私服までXLか?」
「制服が一番まともかもしれません……」
「買いに行くか」
「お小遣い月500円でお年玉は全額親の管理下です」
「だからなあ、社会人の経済力ナメんな」
「そんな、申し訳ないです! ダメです!」
「声がでかい」
「あっ……とにかくダメです!」

 馬鹿馬鹿しい。16、7歳と言えば世間的には最も楽しいなんて言われている年頃だ。その上共学の高校に通う可愛らしい顔付きをしている女が、月額500円でどう人生を謳歌すると言うのだろうか。

「協力するって言っただろ」
「もう十分協力して頂きました! それに知らない服なんて持って帰ったら自宅を出禁です」
「お前、案外頑固だよな」
「弁えてるって言ってください!」

 こいつは制服に留まらず、私服の総てが身の丈に合わないサイズ感なのだと以前言っていた。夕方の電話口で耳にしたいかにもヒステリックそうな母親の顔が目に浮かぶ。大丈夫、伸びるから。成長期なんてとうに終わっていることから分かっているだろうに馬鹿馬鹿しい。

「ガキの頃の服で丁度良いんじゃねえか?」
「……、早く大人になりたいです」
「卒業したらそんな家出ちまえよ。社会人は気楽だぜ? 服も食い物も家も全部自分の自由だ」
「でも働きたくない……」
「切るぞ」
「すみません! それじゃああの、ありがとうございました!」
「ハハッ、素直に礼が言えるようになったじゃねえか」
「おやすみなさい!」
「はいはい、良い子はさっさと寝ろ」
「また土曜日に!」

 自室に寝転ぶ彼女は上手く笑えているのだろうか。どうかしている。どんなに考えても、あいつが屈託無く笑っている様は想像出来なかった。そしてそれを想像しようとしている自分が客観的に、気色悪くて吐き気がする。





「結局制服かよ」
「小さい頃のはさすがに恥ずかしくて……」

 クラス会と銘打ったからには終業式後すぐに集合しなくてはバレてしまう。それがどうしたことか、昼前にこいつはチャイムを鳴らした。
 高校時代なんて十年程度昔のことですっかり忘れていたが、終業式は早々と閉幕し軽い荷物を持った彼女は部屋で麦茶をすすっている。ほんのりと汗と、それに混じった安そうなシャンプーの匂いが部屋に漂っていた。なんとなく昔隣の席にいた女子を思い出して郷愁的な気分になる。あいつは卒業後すぐに同級生と結婚して瞬く間に離婚したらしい。

「昼飯どうすんだよ」
「スイカ……」
「この前のは全部食っただろ。ソーメンでよけりゃ余ってるが」
「お素麺は飽きました。夜まで何も食べません!」
「馬鹿言え。冷凍チャーハン食えるか?」
「あ、いただきます」

 見た通り今日のコイツは機嫌が良い。
 話は寸分違わず本当で、夕方以降家にいないことが初めてのようだ。同じ初めてでも俺の家にはすぐに慣れた癖に、浮き足立って首を振る姿はさながら幼児でその姿が痛ましくさえある。明日子はしょっちゅう杉元の家で寝落ちをしては親父さんに連れ帰られていると言うのに、世の中は不公平に溢れているのだ。

「そうだ。これ振ってけ」
「……え? 香水?」
「鞄に入れときゃバレねえだろ」

 営業先で見付けた小瓶を渡すと彼女はぽかんとした顔をして、すぐに我に返り真顔で俺を見上げた。匂いには好みがあると言うが出会って数回の女の好みなど知った事ではない。
 嫌なら捨てるから返せ、手を差し出すと彼女は面倒な事に金の心配をしているようだった。通学用と思しき愛想無いカバンをごそごそ漁って、同じく可愛げの無い皮財布を開いている。中身はどうしようもなく薄っぺらい。

「財布を出すなって言ってんだろ。いい加減にしてねえとさすがに怒るぞ」
「すみません! でも……」
「でも?」
「ありがとうございます!」

 袋も箱も処分してある。ハダカの香水瓶は色気が無くて、それを更に色気のないセーラー服女が着けているところを見たらどうしようもなくおかしな気持ちになった。
 昔同じようにプレゼントしてやった女がいたが、そいつは包装を受け取るや否やネットで金額を調べて鼻で笑っていた。ここまで物を知らないとあればもはや痛ましくはなく面白い。

「尾形さん、どうですか?」
「離れてんのに分かるかよ。こっち来い」
「え、……はい」

 遠慮がちに近付いてきた彼女からは出先で散々嗅いだ匂いがした。香水の、トップノートだとかミドルノートだとかはよく知らないが服装や化粧で飾ることの出来ない不自由なこいつには丁度良いのではないだろうか。

「ふーん、良いじゃんか」
「どうやって選んだんですか」
「教えねえ」

 不審げに笑いながら手持無沙汰に女は髪を左手で耳に引っ掛けた。

「助け舟が欲しくなったら左手で髪触れ。どっか行って欲しい時は右な」
「え?」
「合図。ただでさえお前が考えてることなんかわかんねえんだから無いと困るだろ」
「尾形さんって頭いいですね。でも右手は絶対使いませんから!」

 何のつもりかは知らないが、彼女が小さく右手を振った。小さい掌が不憫な情景を表している。どうして杉元は、こんなに素直な女を無視できるのだろうか。

×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -