幕引くわたしは蓄膿症
「……名前」
「すみません! チェーン掛けっぱなしで!」
オーブンの番とスマートフォンに浮かぶグループに打ち込んでいたわたしは、ガチャリと響く、解錠の音に連動した金属と不満の声に玄関に走っていた。打ち上げ以降日々の生活は平坦だ。だからこそ尾形さんの出勤を見送るとすぐにどあちぇーんを掛けて、まんまとお昼寝なんかしてしまって忘れている。
家主の尾形さんがチェーンの隙間から不満の息を漏らすのは何もこの時が初めてではなかった。「この家の名義、苗字に変えてやってもいいんだが?」とか言う彼の煽り文句も最早聞き慣れたものである。
「ごめんなさい! あの、夜ご飯もうちょっと掛かるから……先にお風呂入ってて下さい!」
「スーツ、洗濯に出してくれ。明後日の客は嫌煙者なんだと」
「明日の朝にスピード仕上げでクリーニング出して、夜受け取って……」
「無理なら予備で十分だ」
「大丈夫です、それよりお風呂入ってください!」
もうそろそろ加熱時間が終わる頃合いだ。帰宅したての尾形さんを脱衣所に押し込んで、オーブンレンジの扉を開けた。
尾形さんの家は、単身男性のソレとは到底思えないような設備が整っている。下手すればわたしの家以上のキッチンに残る過去の女性の香りが思考を鈍らせた。大丈夫、終わった人だから。わたしの日常生活はソウ言った理詰から始まる。
「わ、ちょっと焦げ……てなかった!」
完成時間を二分に残したハンバーグは丁度良い焼き加減を肉汁で示してくれていた。顎の怪我の所為で口があんまり開かない尾形さんの為に、タネには絹ごし豆腐を仕込んでいる。これなら柔らかくってそうそう噛まずに飲み込めるだろう。
いつか、初めて祖父母の家にお呼ばれしたわたしは結局ただの飯炊き女だった。歯の悪い祖母の為に柔らかくって、ソレでいて洋風の夕食を用意するよう言付けられていたのである。人生ってヤッパリ不思議なものだ。その時は祖父に稽古を付けられるお姉ちゃんと弟が疎ましかったけれど、こんな所で役立っている。
「……旨い」
「あの、食べながら喋舌っちゃダメです」
「名前、酒」
「え、疲れてるだろうし、今日はやめときません……? 飲み過ぎると身体壊しちゃいますよ」
「いいじゃねえか。寝付きよくなるんだし」
「睡眠の質が悪くなります!」
「それも親からの刷り込みか?」
お豆腐の混じったハンバーグは育ち盛りの弟からは不評だった。けれど尾形さんは、そんなメインディッシュとは違った場所で不平を洩らしながら肉片のひとつ残さずにキレイに平らげてくれている。キット、この人は育ちが良いンだろう。お米の一粒残さない普段のお茶碗もソレを物語っている。
結局洗い物をするわたしの傍らで尾形さんはお酒を飲んでいた。
夕飯を終えてつまらないバラエティ番組を送りながら、尾形さんは照明を切り替えた。いやにムードが漂う電球色が一日の終わりを告げている。こうしてスイッチを替えるのは歯磨きの合図だった。
「運動会の準備、順調なんだろ」
「ふんふぉーふぁいっへ、ふぉふぉふぉふぃふぁひ」
「さっさとうがいしろ」
「ふふぃ……」
一足先に口を濯いだ尾形さんの呆れ顔が洗面鏡に映っている。
「九月なんだが」
「ふぇ?」
「急な出張が入った。うちの営業部の、谷垣っていただろ。元々アイツが行く予定だったんだが、嫁さんが臨月らしくてな。鶴見部長に今日言われたんだ」
「……え?」
歯磨き粉の泡を落とすのに、尾形さんの勿体振ったことばは充分過ぎた。
「新しい営業所が出来るんだと。改装工事は来週水曜に終わるらしい。現地採用の面接も全部俺に押し付けらちまった」
「え、あの、尾形さん……?」
「ここの家賃は引き落としだ。生活費にはカードを置いて行ってやる。お使いってことにすりゃ問題ねえだろ」
「尾形さん、え、ソレって」
「今まで通り家は好きに使って構わんが、間違っても誰か連れ込むんじゃねえぞ。特に白石とか」
鏡越しの尾形さんは口元を半袖で乱雑に拭いながら、髪を撫で付けながら、ワの字の眉を少しも歪めないまんま淡々と不在時の過ごし方を言い告げる。内容は理解できているつもりだけれど、頭が少しも追い付かない。
鏡の中のわたしはまさしく顔面蒼白で、誰が見ても分かる通り動揺していた。ソレにやっと気付いてくれたのか、「腹でも痛いか」と無遠慮な問い掛けが降って来る。
「あの、ソレって……いつぐらいに帰って来るんですか? 二日とか、三日とかなら先に買い溜めしてたら大丈夫ですけど」
「オイオイ、営業所の新設だっつったろ。仕事なめてんじゃねえぞ」
「だったらどれぐらい……」
「二ヶ月か三ヶ月、延びても年度内には戻る予定だ。新幹線の距離だから途中で帰るつもりもねえし、一旦は家ごと引き払う事も考えたんだが──」
尾形さんが何かを言っている。尾形さんがいなくなってしまう。尾形さんが、いなくなってしまう。
この生活は永遠に続くんだって勘違いしていた。もし佐一さんとうまくいっても置いてくれるとまで言ったんだから、何があっても一緒にいられるんだって思っていた。
けれど人生は上手くいかないものなのだ(ソレがわたしの人生なんだからなおさら)。どうせ、こうして過ごせるのも夏休みの間だけだって分かっていた。
この前の、通知画面に残した切りのメッセージは「いい加減帰って来い」というお父さんからのものだった。学校が始まったら、どの道こうなっていたんだ。
「わた……し、ソレなら、帰り、ます」
「そうか」
興味なさそうに尾形さんが言った。
「今日は飲んじまったから明日……は会議だったな。日曜に送ってやる。荷物重いだろ。あとはそうだな、服だがそのまま置いとけ。必要な時に勝手に入って着替えてろ」
「……はい、ありがとう、ございます」
だからわたしは、尾形さんとの歪んだ同棲関係が解消される覚悟は出来ていたのだ。だけど違う、少しは引き留めてもらえるんじゃないかって、思ってた。
わたしと違って顔色を少しも変えないまま尾形さんは先に寝室に去って行った。