可愛いあの娘は失語症 | ナノ

患うわたしは恐怖症



 起きた時最初に何を見たか、認識出来ている人間はそういないのだと担任の先生が0限目で話していた。
 どんなに不摂生をしても、どんなに睡眠不足でも、早朝に目が覚めてしまうのは最早呪いだと思う。起きたら、尾形さんは違う尾形さんになっている。起きたくない。そう思いながら眠ったわたしは目蓋を閉じた真っ暗な(けれど視界の中にチラチラと光が散るような)光景を確かに目撃していた。
 気配から察するに、尾形さんはソファで寝てしまったんだろう。ソレから日常から推測するにまだ夢の中だ。
 少しでも、今まで通りを噛み締めていたい。今まで通りのわたしと言えば、早くに起きて朝食とお弁当の準備をしていたはずだ。ソレから余裕があれば掃除とか洗濯とか。意識的に重くしていた目蓋をこじ開けた。身体がひどく重い、わたしの知らない内に地球のGが書き換わっているみたいだ。

「……風邪引いちゃいますよ」

 尾形さんは物静かな人だとよく言われるらしい。けれどわたしにとっては充分騒がしい人だ。イビキこそかかないけれど片鼻の詰まったような苦しい寝息と顎の傷痕を無意識に掻き毟る爪音、朝方の寒気に毛布を探す右手が革張りのソファを弾く音、ソレから時折歯軋りまで聴こえる。
 このまま目を覚さないでくれたら、今まで通りでいられるのに。
 寝室から拾った毛布を被せると彼は頭まで隠すようにソレに包まった。

「ごはん……早炊きなら間に合うかな」

 ある程度うるさくしてもこの人は目を覚さない。けれどいつもより気を張って、控え目に蛇口を上げた。

「あ」

 お米を研ぐ音の中にスマートフォンの振動音が響く。送り主は予想通り明日子ちゃんだった。
 昨夜、佐一さんのアパートの階段を降りながら明日子ちゃんに連絡していた。「ごめんなさい、ありがとう」的を射ていないメッセージだけれど彼女は分かってくれたようで、「気にするな」という短文と一緒に朝日眩しい写真が添付されていた。

「……夕飯、焼き魚にしようかな」

 写真に写る明日子ちゃんは、何て種類かは分からないけれどとにかく立派なお魚を両腕に抱えて満面の笑みを浮かべていた。そう言えば、お盆明けにはお父さん方のご実家に行くって言ってたっけ。
──あー、明日子ちゃんがいないから佐一さんは貴重な休日をわたしに割いてくれたのか。
 これまでのわたしならばそう早合点して勝手に落ち込んで尾形さんに泣き言を連ねていたかもしれない。けれど今はそっちの方の陰鬱な気分は少しも湧いて来なかった。





 尾形さんが起きたのは全部の準備が整う少し前だった。まるで見計らったかのような寝覚めであるけれど、普段通りのそりと立ち上がると目を擦りながら「ああ」とわたしに一声投げてバスルームに向かう。こうなると次に会うのはいつも通り髪をキッチリ固めた目付きの鋭いあの姿である。

「名前、今日も悪いな」
「……おはようございます。あの、ソファでしたけど、えっと……ちゃんと眠れましたか?」
「ああ。昨日は飲んでねえし、二日酔いもすっかり治っちまってるぜ」

 スーツに着替えながら、尾形さんがいつも通りに戻っていく。尾形さんは大人だ。今まで数え切れない程の女性とお付き合いをしていたんだ。昨日の出来事なんて、わたしみたいな『ガキ』が気にする程の事でも無かったんだろう。
 そう考えるとスーッと肩が軽くなっていった。つい先程までの寝惚け面を少しも思わせない彼は、傷の所為で少ししか開かない口で朝ごはんを食べている。

「今日、月次会議で遅くなるから飯はいらねえ」
「え、あ、職場の皆さんと、食べて帰るんですか……?」
「なわけ。家庭持ちじゃねえのは俺と宇佐美ぐらいだから終わったら即解散だ」
「そう、なんですね! だったら丁度良かったです。今日は委員会のメンバーでカラオケ行くので、ソレから買い物して、夜ご飯出来上がるまで時間掛かっちゃうなーって……」
「お前、俺の飯作る為に抜け出した事あるだろ」
「だって尾形さん、残業とかしませんから」

 こうして尾形さんは、帰宅時間が極端に遅れる用事がある時は朝の内に報せてくれる。いつも通りの朝陽をレースカーテンの隙間に受けながら、尾形さんは呆れるように笑ってくれた。

「お前と違って俺はガキじゃねえんだ。飯ぐらい一人で勝手に食うから遊んでろ」
「……、あっ。尾形さんってあの、焼き魚とか……食べられますか? むしってあげないと無理とか?」
「だからガキじゃねえんだって」

 呆れ顔が不機嫌に変わる。

「谷垣って知ってるか?」
「知ってるけどちゃんとお話したことは無いかも……尾形さんと同じ部署なんですよね」
「ああ。嫁さんがそろそろ臨月なんだと」
「大変ですね」
「お前もだろ。体育祭」
「え、え! 覚えてたんですか! あッ、今日のカラオケも実行委員会の子達と行く予定で、えっと。尾形さん、あの……遊びに来てくれませんか?」

 彼は食事を終えたお皿をシンクに放ってネクタイを締めた。この人の会社は昔気質で、クールビズに対応していないらしい。
 我が校は地域貢献を理念に置いているとかで、今のご時世には珍しく校舎を開放している。九月の第一土曜日に開催される体育祭は街を挙げてのイベントだ。だからこそ堅苦しい実行委員があって、特別な事情(例えば明日子ちゃんの里帰りのような)を除く全校生徒は練習に熱心である。

「×日か。急な商談が入らなきゃ…… 名前、お前忙しいんだろ。弁当は誰が作るんだよ」
「作ってくれるって前に誰かが言ってましたけどー?」
「ぬるいスイカと伸びきった素麺で良けりゃ持ってってやるが」

 玄関脇の全身鏡に寄って、尾形さんは片手で髪のほつれを撫で付ける。鏡越しの意地悪そうな笑顔はやっぱり今まで通りで安心した。

「ちゃんと作りますって、体育祭の日は三時起きなんです!」
「それはお前の姉弟の時の話だろ」
「自分の時にそんなに張り切るのって初めてで緊張しちゃいます」

 わたしの体育祭に、運動会に、いいや総ての行事に、家族は誰も来なかった。
 取り繕い切れない程暗い顔をしていたンだろう、わたしは。尾形さんはいつもみたいにワックスの着いた髪でわたしの頭を撫でながら視線を反らした。ソレは革靴の先に向かっている。地べたに置いた通勤鞄を左手に、右手がドアノブに引っ掛かる。

「弁当」
「はい。あの、ちゃんと保冷剤入れてますけど、変な味したら捨ててください!」
「分かってる。それじゃあな」
「いってらっしゃい」

 バタン、ガチャリ。
 玄関ドアーを閉めた後、中にいるわたしを閉じ込めるように尾形さんは外から鍵を掛ける。革靴の音が小さくなるのを確認してチェーンを触るまでがいつしかわたしの新しいルーティーンになっていた。

「……よかった」

 わたし以外の誰もいなくなった広い部屋に、独り言が反響する。

「よかった……!」

 起きても尾形さんはいつもの尾形さんだった。全部、全部ぜんぶわたしが勝手に不安になっただけなんだ。
 その証拠に、夜は二十時に帰宅して焼き魚の小骨を前歯で噛み砕き、同じベッドで寝てくれた。次の日も似たような会話を挟みながら出勤して、退勤して、明日が週の中日である事を憂いていた。水曜の朝はいっそう深くなった目の下のクマを擦りながら死んだような声色で「弁当」と繰り返している。

「いってらっしゃい」
「ああ」

 何も変わらない。変わらない日々が、延々続いたら良い。ソウだったらわたしは、尾形さんとずっと一緒に日々を貪る事が出来るんだ。
 通知画面が示す名前を無視してわたしは夕飯の準備をしていた。今日は少し手の込んだ料理を作ろう。表情の少ない尾形さんが、ちょっとでも笑ってくれたら、ソレだけでわたしはしあわせになれる筈なんだ。

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