可愛いあの娘は失語症 | ナノ

惨めな自分は心身症


 ここまで飲んだのはあのヤケ酒ぶりだ。体裁を保つために久々に部署の飲み会に参加したのがいけなかった。鶴見部長の嫁と子供は八月末まで国に戻っており、谷垣も嫁さんが出産準備で里帰り、月島さんに宇佐美二階堂はいつもの調子であった為三次会まで付き合わされるハメになったのだ。
 頭が重い。吐き気もする。昨夜はどうやって家に帰ったかすら朧げだ。

「名前ー、水くれ……名前?」

 時刻は正午を回っている。普段ならばとうに名前は起きているはずだがどこにも人の気配がない。代わりにテーブルに書き置きが残っていた。
 遊びに行ってきます。お昼ご飯は冷蔵庫に入れてます。そうだ、あいつ委員会の奴と遊びに行くとか言っていたな。

「あー……煙草忘れてきた」

 あの日とは違い変に焦ることもない。名前はこの夏休み、たまに委員会やら体育祭の練習やらに出ているらしいが家事や勉強を生業とする家政婦半分学生半分のような生活をしている。せっかく実家という枷が無くなったのだから、毎日友人と夜中まで遊び呆けるぐらいが丁度いいのだ。
 タバコ、買いに行こうと思ったが頭が痛くて仕方がない。シケモクを吸うのなんて学生時代ぶりだ。惨めな気持ちになるも頭が回らない、今週はあの日曜の夜のことばかり考えていたのでそれが若干心地良い。あの飲み会に感謝する日が来ようとは思っていなかった。





「まだ帰んねえの? ……っと。どうせ買い物でもしてんだろ」

 西日が眩しく目が覚めた。十九時、名前は未だ帰っていないようだ。
 夜中まで遊んでいた方が健全だとか考えていたものの、いざ名前がこの時間に家にいなければ気掛かりになってくる。オイ。どこにいる。名前。十五分を目安にメッセージを送るが返信は一向に訪れない。
 当然電話をしても留守録に流れるばかりだ。事故や熱中症救急車に運ばれる名前より、実は友人とは男でどこぞに連れ込まれていたり親からの連絡を受け自宅に連れ戻されていたりする姿を想像して酔いが覚めていく。

「……アホか」

 腑抜けか、俺は。名前に依存するだけ依存して、良い思い出を口実にヤろうとしたのにできなかった。彼女のことはガキだとばかり思っていたが、うまいこと「なかったこと」として平常運転しているあたりあちらの方が大人である。
 酔いと睡魔を覚ます為にシャワーを浴びたのは失敗だ。風呂場は生活音しか無い為に余計なことばかり考えてしまう。
 これまでの人生で名前がいなかった時間は二十数年にのぼるのだが、ほんの半日その姿を見ないだけでここまで自分は不安定になってしまう。何度も考えたことではあるが、だが、彼女の幸福を考えた時にそこに俺はいて良いはずが無いのだ。俺は名前を愛している。だからこそ名前にだけは幸せになってもらいたい。

──新規メッセージ1件

 連絡が入っていることを期待してケータイを見た。その瞬間全身の血液が滅茶苦茶に流れ始める。「名前ちゃん迎えにきてやって」と、別人からのメールが届いている。
 わかったと、一言杉元に変身した俺はすぐさまケータイを投げ捨てた。床にぶち当たったケータイが嫌な音を立てる。この雰囲気、おそらく画面は割れてしまっただろう。

「ンなことじゃなくて……」

 何が学校のダチだ、あいつは杉元と出かけていたんじゃねえか。少し前までの自分であれば憤りや不甲斐なさを感じていたに違いないが不思議と気分が落ち着いている。何もしなくて良いのだ。名前は俺が何かをしなくても一人で勝手に幸せになれる。





 何故杉元が俺に連絡をして来るのかぐらいは聞いてやりたかったが、申し訳なさそうに爪をいじる彼女をみているとその気も失せてしまった。終始「すみません」を繰り返し、言い訳を述べるつもりなのだろうが何も出て来ない。生来弁が立つ方ではないのだろう。
 協力してくれとか助けてくれとか言った手前抜け駆けのようなことをしたことに罪悪感を覚える気持ちならば何となく理解できる。ただ俺としては、これ以上無為な関係に首を突っ込まずに済むのだから願ったり叶ったりなのだ。

「明日は買い出し行くか。時間あるか?」
「え、あの」

 極力話題を反らしてやっているのに名前は尚も贖罪を求めている。こう言った場合、体裁だけでも叱ってやるのが良い上司なのだろう。が、生憎俺は良い人になったことは一度もない。
 大体俺は現状こそ名前の保護者であるが、親でもなければ当然恋人ですらないのだ。それなのに義理だけで謝罪される俺の気持ちを少しは汲んで欲しいと、ガキに求めるのは行き過ぎた願望だろうか。

「尾形さん、あの! ……えっと」
「だから何だって。名前」

 初めて会った時名前は俺と視線を合わせようとすらせず、申し訳なさそうに、恐る恐る声をかけていた。それがいつしか目を見てまともに話すようになった。俺の知る限りでは杉元相手には依然そのおどおどした態度のままであるはずだ。
 そんな少しの優越感すら名前は捨てていく。もうとっくに周りに貶められるような弱い存在では無いことに彼女は気付いていないのだ。「失語症じゃねえんだから言いたいことは言え」とは俺なりの激励であり慰めだった。が、名前には全く別の意味に聞こえてしまったらしい。

「尾形さんはどんなことしてもらったら幸せですか?」

 どうして名前からそんなことを聞かれなければいけないのだろうか。
 俺は元々、名前が年相応に笑ってくれたらそれでよかった。どうしたことか名前に肩入れするようになってからは俺の女になればとか、杉元に渡したくねえとか、いろんな道を経由して今日ようやく「名前が幸せならばそれでいい」と落とし込むことができたのだ。
 そう言った全てを無視して、無神経にも、名前は間違えなく杉元のことを考えながら俺に質問している。

「関係ねえだろ」

 ならば俺には関係無い話だ。
 名前は唇を噛みながらも器用に笑い、「ありがとうございました」と残し寝室に去った。

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