不出来なわたしは失語症
「どうせなら泊めてもらっとけよ。せっかく家に上がり込めたんだ」
「あの、すみません……」
「まあいい、さっさと乗れ」
コインパーキングで尾形さんは足元に何本も吸殻を散らしていた。佐一さん、全部気付いてたんだ。
ここから居候先たる尾形さんのマンションはさほど距離は無く、夜を良いことに時速80キロで車は寄り道もせず一直線に進む。「あの」声を出しても運転に集中する尾形さんは、サイドミラーこそ見ても赤信号でもわたしに視線を置かない。
「すみません……」
横顔は冷たく意識はバック駐車に注がれていた。オートロックを開いて、鍵の掛かっていない部屋に靴を荒らしたまま上がり込んで、彼はどかりとソファに座り込む。テレビとか電気とかクーラーとか、家電は全部点いたままだ。
充電ケーブルをスマートフォンに差し込んでしばらく、復活した画面に夕方から今までの時間が流れ込む。「まだ帰んねえの?」「おい」「どこにいる」「名前」「おーい」「実家か?」「腹へった」「名前」メッセージのバッジは二十以上を示してその全てが尾形さんを発信源にしていた。
「すみません……あの、ご飯」
「いらねえ」
やっと起こったやり取りにひどく安心した。尾形さん、いつもはドライヤーで完璧に髪を乾かすのに今に関してはうっすら湿気ている。きっと佐一さんからの連絡があってすぐに来てくれたんだろう。
デジタル時計が二十二時を告げていた。前までのわたしにとってその時間は夢の中だったことが非日常を実感させる。
尾形さんと初めて会って、そんなに時間は経っていない。なのにわたしの人生は赤とか青とか黄色とか、黒とかピンクとか、イッパイの色が溢れていて整理が一切追い付かない。
「明日は買い出し行くか。時間あるか?」
「え、あの……」
「要るもん書いてくれたら俺一人で行ってくるが」
チカチカと眩しく汚い電灯を経てわたしは慣れ親しんだ部屋に戻る。抑揚の無い声が淀みなく日常会話を続ける。もっと他に、わたしを責める言葉は無いんだろうか。
車の運転を終えた尾形さんは、部屋に帰るやウイスキーを瓶のまま煽って空笑いした。点けっ放しのテレビからは聞いたこともないような言語のドラマが字幕も無く流れている。ハラショー! 白黒画面が軽快に冗談を演じているがなんのことやらわからない。
「べたべたして気持ち悪いな。髪乾かしてくる」
「尾形さん……あの、怒ってないんですか?」
「あ? どうして俺が怒る必要があんだよ」
心底謂れがないと言わんばかりに彼は鋭い視線を投げやった。
「だってわたし、充電切れてて連絡無視みたいになってましたし、尾形さんに言わないで佐一さんと遊びに行ってて」
「俺はお前の親でも彼氏でもねえんだから、たかだか出掛ける程度でお伺い立てる必要ねえだろ」
背中に汗が垂れる。
この家のエアコンは佐一さんのご自宅と違い優秀だ。元カノさんが空気清浄機能付き以外は認めないとか言ったせいで、何十万って払う羽目になったことを聞いている。
だから汗ナンテかかない筈なのに、背中以外にも手とか頭とかお尻とか、嫌な湿り気が服の中に逃げ場なく留まっている。尾形さんは大きな冷蔵庫から追加のように度数の高いチューハイを取り上げた。
「尾形さん、あの! ……えっと」
「だから何だって」
尾形さんがスマートフォンをいじっている。あのゲームはサービスを終了しているから、画面の向こうには女の人がいるのかもしれない。何してるんですかって、聞いたらこの人は包み隠さず答えてくれるんだろう。けれどそうされたらされたで次は血の気が去ってしまいそうだから何も話せない。
溜息を吐いた彼は手をついて、わたしの顔を見ないまんま「名前」と名前を呼んだ。
「お前、最近どうかしてんぞ。俺ともまともに話せなくなったか」
「いえ、えっ……わたし、わたし別に……」
「失語症じゃねえんだ、言いたいことがあるなら勿体振らずにさっさと言え」
あの日から尾形さんと普通に喋舌ることができない。だけど、一つだけ言い訳するんならわたしは多分、あの日からこの人を特別に思っているんじゃなくてもっとずっと前からこう思っていたんだ。
尾形さんにならショートケーキのイチゴも、たこ焼きのタコもとっておきのチョコパイも簡単に差し出せる。尾形さんのことが好きだ。だけどわたしは佐一さんのように綺麗では無いから、尾形さんに幸せになってもらいたいんじゃなくて尾形さんと幸せになりたい。
「尾形さんはどんなことしてもらったら幸せですか?」
「……ガキには関係ねえだろ」
もしかしたらわたしは間違えたのかもしれない。それ切り尾形さんはいつものように無口に戻ってタバコを吸いにベランダに行ってしまった。これは多分、移り気な自分への罰だ。明日からの尾形さんは別人になるに違いない。
それでも今の、好きな人と一緒に過ごせる環境にあぐらをかいていたい。わたしみたいな穀潰しが家にいるのは迷惑だ。わかっているのに自分の幸福を優先してしまう自分が嫌で、嫌でベッドに潜った。